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【CÉCITOUR TOKYO(セシツアー・トウキョウ)】フランス発のブラインドスポーツイベントが日本初上陸!

【CÉCITOUR TOKYO(セシツアー・トウキョウ)】フランス発のブラインドスポーツイベントが日本初上陸!

「CÉCITOUR」(セシツアー)は、視覚障がい者スポーツに特化し、理解を広めるためのフランス発祥のプロジェクト。「視覚障がい者のスポーツ実践を促進する」「視覚障がい者支援に貢献しうる関係者ネットワークを発展させる」「市民の理解を深める」の3つを目指し、フランスハンディスポーツ連盟が2023年からスタートさせた。今年のパリ2024パラリンピック大会を控え、これまでにフランスの主要6都市を巡回して視覚障がい者スポーツの実践や社会参加を促す活動を行ってきたが、フランス国外では初めての開催となる「CÉCITOUR TOKYO」が5月12日、上智大学四谷キャンパスで開催された。上智大学とソフィアオリンピック・パラリンピック学生プロジェクトGo Beyondが主催し、フランスハンディスポーツ連盟とのコラボにより実現したものだ。「視覚障がい者スポーツ・音楽・テクノロジー・フランス文学が融合するイベント。年齢・国籍・障がいの有無にかかわらず多様な人たちに出会える、そんな1日があなたを待っている」というキャッチフレーズのこのイベントは、とにかく催し物がてんこ盛り! その模様を写真とともにレポートしていこう。仏ハンディスポーツ連盟ディレクターのシャルリ・シモ氏が来日。日本パラリンピック委員会の河合純一委員長らとトークショーを行った体育場で行われた「セシリンピック」では、ブラインドサッカーをはじめ、さまざまなブラインドゲームが体験でき、参加者は大盛り上がり!視覚障害者柔道日本代表強化選手の佐々木嘉幸選手、パラリンピック銀メダリストの廣瀬誠選手が参加したブラインド柔道の体験会。アイマスクをして投げられるのは恐いけど気持ちいい(?)ゴールボール体験コーナー。目隠しをしてブラインド状態になると世界がまったく変わるデジタル技術を活用したVR馬術体験20以上の企業・団体が出展した「セシエキスポ」。参天製薬は、ブラインド&ロービジョン、ブラインドサッカーなどさまざまな視覚障がい体験を提供したデフサッカー日本代表キャプテンの松元卓巳選手をはじめ多数のパラアスリートをサポートする、あいおいニッセイ同和損保の展示ブース。松元選手はアスリートトークセッションに出演NHKの天気予報画面は、ユニバーサルデザイン化によって視覚障がい者でもわかりやすい(画面右)。NHKではこのほかにもさまざまな放送のユニバーサルサービスを開発・実装している手にはめたままスマートフォン操作ができるレガン社の防寒手袋。視覚障がい者はもちろん、晴眼者にもウケそう全盲のドラマー酒井響希さんが出演。上智大学ニュースイングジャズオーケストラとの共演のほか、ソロパフォーマンスを行ったフードトラックも登場。写真はカレー業界でさまざまな活動をしている後藤よしお氏のスパイスカレー店ここまで写真で紹介した催し物のほかにも、日仏ブラインドスポーツ界を代表する3人のレジェンドによるトークショー、パラ競泳・木村敬一選手のドキュメンタリー上映会、特別体験授業などが行われた。この8月にはパリでパラリンピックが開催される。「CÉCITOUR TOKYO」を主催したGo Beyondは、このイベントを通して東京オリパラをきっかけに生まれた共生社会へのムーブメントを持続可能なものとして、パリパラリンピックの開催国であるフランスへ継承していきたいとコメントしたが、まさにそれを実現する体験と気づき、そして熱気と情熱に溢れる一日となった。上智大学 ソフィアオリンピック・パラリンピック学生プロジェクト 「Go Beyond」/Go Beyond(ゴービヨンド)は、平昌冬季パラリンピック調査に参加した学生2名が2018年6月に立ち上げた。2020年の東京オリンピック・パラリンピックをきっかけとして、共生社会の実現を目指し活動。小中高校での多様性理解に関する授業やパラスポーツ体験などを行っており、今回「CÉCITOUR TOKYO」を上智大学とともに初めて主催した。大学生だからこそ持つ視点や観点から、同世代はもちろん幅広い世代や社会に対して、誰もが輝ける社会の実現に向けてアプローチをしている。取材・文・写真/編集部

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冬季デフリンピックでメダルを獲得した東京都ゆかりの選手に都民スポーツ大賞を贈呈
神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会を盛り上げるアシックス
宮崎恵理氏が国際スポーツプレス協会メディアアワードで特別賞を受賞!
パリ2024パラリンピック 日本代表選手団副団長の決定について
【パラスポーツ体験会のお知らせ】東京都立大学パラバドミントン教室
「ネクストパラアスリートスカラーシップ~ NPAS ~ supported by 三菱商事DREAM AS ONE.」2024年度奨学金授与式

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コカ・コーラ ボトラーズジャパン所属デフアスリート・髙居千紘(陸上)が多様性をテーマにした世界的ファッションイベントに参加

コカ・コーラ ボトラーズジャパン所属デフアスリート・髙居千紘(陸上)が多様性をテーマにした世界的ファッションイベントに参加

バンクーバーファッションウィークの報告会も兼ねたDE&Iのイベント「Fashion Values Society -DE&Iを知る、感じる、繋がる3日間」会場に展示された現地の様子を伝える写真この4月、カナダ・バンクーバーで開催された「バンクーバー ファッション ウィーク FW24」。2001年以来、年に2回開催され、ニューヨークに次いで北米では2番目の規模を誇るファッションウィークとして知られている。若手デザイナーにとっては、4大ファッションウィーク(ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ)への足掛かり的存在として注目を集めており、日本をはじめ南米やアジアからも気鋭のデザイナーが多数参加。多様性の国と言われるカナダで開催される、まさしく「多様性」をテーマとした一大イベントだ。障がいやセクシュアリティ、信仰に関係なく、誰でも自由に自分の好みや体型に合わせて選択ができるカスタマイズ型スタートアップ・アパレルブランド「SOLIT!」の衣装を身にまとい、コカ・コーラ ボトラーズジャパン社のスカーフとスカーフリングを着けてランウェイを歩く髙居千紘このファッションウィークに、東京2025デフリンピックで日本代表を目指す髙居千紘(たかい・かずひろ)が参加した。先天性感音性難聴の髙居は、コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社のアスリート社員として、業務と両立しながら、デフ(聴覚障がい)陸上競技の活動をしているアスリートだ。4月23日(現地時間)、髙居は「オール・インクルーシブ」な社会の実現を目指すファッションブランド「SOLIT!」のランウェイにモデルとして出演。鍛え上げられたアスリートボディはプロのモデルさながらで、大きな注目を浴びた。コカ・コーラ ボトラーズジャパン社の自動販売機の製品補充やメンテナンスを行うオペレーションスタッフが夏季に着用する「サマースタイル」ユニフォームの廃棄予定の布地などを縫い合わせて、多様性をイメージして制作されたスカーフ(制作:SOLIT!)また今回、髙居を含む複数のモデルが、廃棄予定の同社のユニフォームからアップサイクルされたスカーフと、コカ・コーラ社製品のペットボトルキャップからアップサイクルされたスカーフリングと指輪を身に着けて、ランウェイを歩いた。スカーフリングには「コカ・コーラ ゼロ」と「ジョージア THE ブラック」、指輪には「アクエリアス」と「やかんの麦茶 from 爽健美茶」の廃棄予定のペットボトルキャップがリサイクルされて使われている(制作:本多プラス株式会社 ame)髙居が勤務するコカ・コーラ ボトラーズジャパン社は、「すべての人にハッピーなひとときをお届けし、価値を創造します」というミッションを元に、社員一人ひとりの多様性を尊重することで、性別、年齢、障がいの有無、国籍、性的指向等の属性によらず、すべての社員が能力を最大限に発揮できる組織づくりを目指すという企業文化を持つ。今回の高居の参加をきっかけに、社員にとってより多様な活躍機会の提供を目指すとともに、多様な人材が力を合わせ、さまざまな変革を起こすことで、豊かな生活に貢献していきたいとのことだ。「Fashion Values Society -DE&Iを知る、感じる、繋がる3日間」で開催されたトークセッション『D&Iを進めたら、見えたこと。 -事例から紐解く本当のメリットデメリット - 』に登壇したコカ・コーラ ボトラーズジャパン社執行役員の東由紀氏「Fashion Values Society -DE&Iを知る、感じる、繋がる3日間」の会場には、バンクーバーファッションウィークでお披露目されたSOLIT!のアパレルも展示された髙居 千紘(たかい かずひろ)/1997年6月7日生まれ、滋賀県出身。先天性感音性難聴をもつ。高校1年から陸上競技を始め、走り高跳び、十種競技で活躍。いずれも走り高跳びで、全国聾学校陸上大会3連覇、第15回日本デフ陸上優勝、2019年ジャパンパラ陸上優勝など輝かしい実績を持ち、東京2025年デフリンピックへの出場、メダル獲得を目指している。日本体育大学を経て、2020年4月にコカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社に入社し、現在は同社所属デフアスリートとして活動している。取材・文・写真/編集部 写真・資料協力/コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社
新星、参上。小田凱人(車いすテニス)

新星、参上。小田凱人(車いすテニス)

車いすテニス界に新星が現れた。小田凱人(おだ・ときと)、16歳。王者・国枝慎吾が「ショットのパワーもコントロールも超一級」と認める若き才能を、練習拠点の岐阜に訪ねた。※この記事は『パラスポーツマガジンvol.12』(2022年11月28日発刊)から転載したものです。表記などは取材時のものですのでご了承ください。基本が身についてくると狙ったところに同じクオリティで打てるようになってきた2022年10月6日〜9日、東京・有明テニスの森で開催されたテニスの楽天ジャパンオープン車いす部門の決勝戦は、センターコートである有明コロシアムで行われた。コートに入場したのは、日本が世界に誇る国枝慎吾、そして、16歳の小田凱人である。決勝戦は、ファイナルセット・タイブレークにもつれ込んだ。2時間27分もの死闘を制したのは、レジェンド・国枝。しかし、国枝を追い詰めた若武者・小田の戦いぶりに、集まった観衆はスタンディングオベーションでいつまでも讃えていた。2021年、小田は15歳を目前にジュニアの世界ランキング1位となり、そのままの勢いでシニアのランキングも9位まで押し上げた。今年4月、高校進学を機にプロ転向を表明。6月には全仏オープンでグランドスラムデビューを果たす。国際テニス連盟(ITF)によれば、16歳でのグランドスラム出場は史上最年少である。11月7日現在、男子シングルス世界ランキング4位。日本に、車いすテニス界の新たなスーパーヒーローが出現した。競技用車いすがかっこよくてテニスをはじめた小田は3歳でサッカーを始め、夢中になってピッチを駆け回る元気いっぱいの子ども時代を過ごしていた。小学2年の冬に左脚に痛みを感じるようになり、小学3年の6月に病院で受診すると左股関節骨肉腫であることが判明。抗がん剤治療でがん細胞を小さくした後人工関節を装着し、腹直筋を切除して大腿部に移植する大手術を受けた。現在、左股関節は60度以上屈曲することができない。クラッチを使って歩行することで脚力を維持しているが、車いすを利用する方が、移動そのものは楽なのだという。入院中に主治医に「退院したらパラスポーツをやってみてはどうか」と勧められ、動画でさまざまなパラスポーツを検索すると、車いすテニスに目が留まった。「競技用の車いすがめちゃくちゃかっこよくて。それまではサッカーしかやってこなかったけど、個人競技であるテニスに挑戦してみたいと思ったんです」食い入るように見ていたのは、リオパラリンピック前に有明テニスの森で開催された世界国別選手権(ワールドチームカップ)での国枝のプレーだった。誰よりも素早く競技用車いすを操作してウイナーを決める姿に魅了された。「初めて競技用車いすに乗せてもらったのは、病院内にある体育館で、体験用の車いすでした。入院してからずっと感じていなかった〝風〞を感じられた。純粋に楽しかったことを、鮮明に覚えています」退院してすぐに、車いすテニスプレーヤーが在籍するクラブの門をたたき、本格的に車いすテニスを始めた。クラブには、クアードクラスでロンドンから東京までパラリンピック3大会連続出場した諸石光照が所属。諸石は、小学生の小田にていねいにテニスを指南した。「始めたばかりの頃は、ボールを打つのも、車いすを操作するのも、ただ楽しくて」夢中でボールを追いかけた。テニスを始めてすぐに国内の大会に出場する。「ずっと動画で世界のトップクラスの試合を見ていたから、現実のプレーとの落差にがっかり。でも、だからこそ、自分がレベルアップして、これを超えていきたいという思いが強くなりましたね」ジュニアの大会だけでなく、シニアの大会にも出場するようになる。初めて対戦したのは、パラリンピアンの齋田悟司だ。国枝とペアを組んで出場した04年のアテネパラリンピックのダブルスで金メダルを獲得した選手である。「小学生相手に、手加減せず戦ってくれた。ボロ負けでしたけれど、そこで火がつきました」動画やテレビでしか見たことのないレジェンド国枝に直接対面したのは、小学5年。ジュニアのための車いすテニスキャンプ「ドリームカップ」でのことだ。「本物の国枝選手を見て、もう、心臓バクバクでした」この時すでに小田の視線は世界に向いていたが、国枝をはじめとするパラリンピアンとの出会いによって、その思いはいっそう高まったのだった。2018年、ジュニアのシングルスランキングは56位、男子シングルスでは408位。中学に進学すると、海外のツアーに参戦するようになった。ここから小田の躍進がスタートする。コロナ禍で自分を見つめ直し基礎練習に取り組むところが、実際には2020年からコロナによる感染拡大で、世界中の誰もが練習も試合もできない状況に陥ってしまう。小田は、このコロナ禍こそ、大きく成長した期間だったと振り返る。「コロナ前に海外遠征に出るようになり、何歳の時にはこのくらいのランキングにして、この大会に出場して、10代で世界一になるぞ、と心に決めていた。それが、コロナで全部、吹っ飛んでしまったわけです」いつ終わるとも知れないコロナ禍で、小田が、立ち止まった。「テニスが楽しくて、その先に世界があった。当時は、練習でも自分のやりたいこと、好きな練習だけをやっていて、それで世界に通用すると思っていたんです。でも、自分を見つめ直したら、今のままでは、絶対に世界一になんかなれないと、気づきました」楽しい気持ちは、小田少年を成長させるエネルギーにはなっている。しかし、世界で勝つには、それだけでは足りない。「コロナ前までは、いわゆる球出しトレーニング、基礎的な反復練習が嫌いだったんですよ」コート練習が再開すると、嫌いだった基礎練習に取り組み、ショットに磨きをかけていった。現在練習拠点にしている岐阜インターナショナルテニスクラブで、2020年からパーソナルに小田を指導し、プロ転向後海外遠征にも帯同する熊田浩也コーチが語る。「車いすということは考えない。シンプルにテニスプレーヤーとして必要な技術を身に付けさせることに注力してきました」熊田コーチは小田と同様に左利き。そのメリットを生かしたサーブからの展開、ストロークの精度を磨いて対戦相手の戦意を消失させる。そのための徹底的な基礎練習を積み重ねてきた。左がコーチであり練習パートナーの熊田浩也さん。小田の急成長を支えた重要人物のひとりだ「基本が身についてくると、毎回、自分が狙ったところに、同じクオリティで打つことができるようになってきました」(小田)2021年にツアーが再開すると、小田は海外へ飛び出す。久しぶりの試合で感じたのは、基礎練習によってショットミスが減少したという手応えだった。トルコで開催されたシニアの大会で連戦連勝。グランドスラム常連のヨアキム・ジェラール(ベルギー)、トム・エフベリンク(オランダ)の2人には敗北を喫する試合もあったが、それ以外の大会はすべて優勝し、この年に一気に男子シングルスのランキングを一桁台にのせた。コロナ禍で決めた覚悟を、パフォーマンスで爆発させたのだった。夢の場所、夢の舞台、そして夢の対戦相手……あこがれの国枝と実際にネットを挟んでプレーしたのは、数えるほどしかない。初の対戦は2019年。初めて車いす部門が新設された楽天オープンだった。中学1年の小田はダブルスで、国枝/ステファン・オルソン(スウェーデン)組と対戦し、1ゲームも取れずに完敗。記憶にさえ残らない試合だった。小田が国枝というプレーヤーを強く意識させられた打ち合いは、2021年東京パラリンピックを目前に控えた代表合宿でのことだという。「パラリンピック直前ということもあって、国枝選手のショットの完成度の高さに驚きました。どこへ打ち込んでも、どんな球でも、国枝選手は同じ場所に同じクオリティのショットを打ち返してくるんです」この完成度を超えなければ、国枝を倒すことも、世界一になることもできない。ネットを挟んで、国枝の凄みを感じ取っていた。実際に試合で対戦したのは、今年に入ってから。1月、オーストラリア・メルボルンオープンの準決勝。6-7(2)、6-7(1)と、いずれのセットもタイブレークとなる接戦を演じたが、敗退。2度目は、グランドスラムデビューとなった全仏の準決勝。この大会では2-6、1-6。3度目は全仏直後に行われたリビエラオープン準々決勝で、3-6、5-7で敗退している。車いすテニスの素晴らしさをより多くの人に広めたい。そのためにも結果を残したい(小田)そして、迎えた3年ぶりの楽天オープン決勝の舞台が、国枝との直接対決4戦目となった。小田の長い腕から繰り出すサーブに国枝がミスを連発し、1ゲーム目を小田がキープする。しかし、国枝もサービスキープし3-3と拮抗する展開に。第7ゲームで小田のサービスを国枝が鋭いリターンで攻め返しブレークに成功すると、勢いのまま6-3で国枝が先取した。第2セットで小田の反撃が始まる。第2ゲームまでは国枝にリードを許すが、第3ゲームでは小田のリターンが冴え渡った。その後もフォア、バックハンドともにウイナーを放つ。国枝の追撃を寄せ付けずに第2セットを6-2で奪取した。小田にとっては、国枝から初めてもぎ取った、記念すべきセットである。ファイナルセットは、国枝のキレが戻り1-5でリードを許す。第7ゲーム、国枝のバックハンドが小田のコートの左隅に決まりマッチポイントを握られると、勝負があったかに見えた。しかし、ここから小田は「一気にゾーンに入った」という。1-5から巻き返した小田は、6-5まで駆け抜ける。「自分は細かく戦術を立てるスタイルではありません。自分の武器であるサーブやショットを、相手に合わせて思うがまま、自由にプレーする。駆け引きをすると、(国枝のような選手に)読まれてしまうというリスクが生じます。どうしてもわずかに一瞬、体が動いてしまうからなんです。だから反射的に自分の感覚に従ってプレーしていました」考えるな。ひたすら打ち込んでいけ。そのことだけを考えていた。自分の感覚だけを信じて勝利に向かってまっしぐらに進んでいたが、6-5で先に王手をかけたことで、わずかに弱い自分が顔をのぞかせてしまったという。「強い自分と、弱い自分が2人いた。そんな自分を初めて見つけました」タイブレーク、国枝のダブルフォルトで小田が先制点を挙げる。しかし、その後、波に乗れず3-7で勝利を逃した。「先制点を挙げた後、自分には2本のサービスチャンスがあった。それを活かしきれませんでした。調子は悪くない、すごくよかった。だけどタイブレークで勝ちきれない。それが勝負を分けるということだと痛感しました」2時間27分の激闘を終えた後、小田は最後まで観戦したスタンドの観客に向かって、「まずは国枝選手、本当にありがとうございました」と感謝を語り、こらえていた涙で声を詰まらせた。「夢の場所、夢の舞台、そして夢の対戦相手……」コートインタビューで語った言葉は、小田の心そのままである。「トキトが今年グランドスラムデビューも果たし、いつかやられる日がくるかもしれないと思っていた。今日がその日なのかと、何度もそのことが頭をよぎりました」。国枝はこう言った。2004年のアテネパラリンピック・ダブルスで金メダルを獲得し、その後06年にアテネでダブルスのパートナーを組んだ齋田に敗北を喫して以来16年間、国枝に土をつけた日本人選手はいない。06年に産声を上げた小田が、圧倒的な王者・国枝に「今日がその日か」と言わしめるほど追い詰めた。10代で世界一になる。今年グランドスラムデビューを果たし、マスターズにも出場した。その先に初めてのパラリンピックとなるパリ大会出場、金メダルという目標もある。しかし、小田が目指しているのは、大舞台の結果にとどまらない。「現役中は、つねに1つの大会で結果を求めていくことの繰り返しです。そこはぶれずに続けていきます。でも、その勝利はなんのためのものなのか」長年トップを走り続けている国枝の凄さを改めて感じたからこそ、それを超えていくという思いが新たに湧き起こった。「国枝選手にあこがれて車いすテニスを始めた。この車いすテニスの素晴らしさを、より多くの人に広めたいです」そのためにも結果を残す。自ら発信もする。将来は子どもたちにテニスを指導してみたい。いずれも、国枝が日本の障がい者スポーツの荒野に作ってきた道だ。その王道を、国枝の背中を見て育ってきた小田が、たどる。車いすテニスの新たな地平が、小田の出現によって開かれていくのだ。サウスポーのメリットを生かし、サービスとその次のショットで相手を圧倒するのが小田のスタイル小田凱人(おだ・ときと)/2006年5月8日、愛知県生まれ。東海理化所属。小学3年で左股関節の骨肉腫を発症し、左脚の自由を失う。10歳で国枝慎吾に憧れて車いすテニスを始めた。小学4年で国内大会のジュニア部門に初出場、小学5年でシニアの大会にも出場。中学に進学すると海外遠征を開始、2021年にはジュニアの世界ランキング1位、さらにシニアの世界ランキング9位に。2022年4月、N高等学校進学を機にプロ転向を表明。6月全仏オープンからグランドスラムに出場し、ウインブルドン、全米の3大会を戦う。年間王者を決める11月のNECマスターズを史上最年少で制し、世界ランキングはシングルス4位、ダブルス9位(2022年11月7日現在)。取材・文/宮崎恵理  写真/吉村もと 協力/岐阜インターナショナルテニスクラブ
いざパリへ!世界最終予選を勝ち抜いた車いすバスケ女子日本代表

いざパリへ!世界最終予選を勝ち抜いた車いすバスケ女子日本代表

オーストラリアとの出場決定戦に50対26で勝利!16年前のパラリンピック自力出場を経験している網本麻里(中央)は若手選手を引っ張った「やっと、やっ…」やっと、なのか、やった、なのか。言葉にならない言葉が耳元に漂いながら、あとは嗚咽に変わっていった。選手が引けた後のミックスゾーンに残った網本麻里に、「よかったね、おめでとう」と声をかけた直後のことだった。おもむろにバスケ車から立ち上がり、抱きついて、こうささやいた。どれほどの重圧があったのだろう。ただ、抱きしめて、小さな子どもをあやすように、「よかった、よかったよ」とささやき返すだけだった。2024年4月17日(水)〜20日(土)、パリパラリンピックの出場権をかけた車いすバスケットボール女子最終予選が、大阪市にあるAsueアリーナで開催された。この大会には、日本を含む全8チームが出場、グループA(オーストラリア、アルジェリア、ドイツ、タイ)、グループB(カナダ、フランス、スペイン、日本)分かれて予選リーグを行い、その順位に基づきクロスオーバー戦が実施された。このクロスオーバー戦に勝利した4チームにパリ大会の切符が与えられる。グループBの日本は、17日にカナダ、18日にフランス、19日にスペインと戦い、1勝2敗の3位に。グループA2位のオーストラリアとのクロスオーバー戦で日本は50対26でオーストラリアを下し、パリパラリンピックの出場権を獲得した。車いすバスケの女子日本代表は、3年前の東京2020パラリンピックに出場した。12年のロンドン大会、16年のリオ大会には出場が果たせず、2008年の北京以来3大会ぶりの出場だった。とはいえ、東京大会は、開催国枠による出場である。今夏パリで開催されるパラリンピックへの出場条件に開催国枠はなく、ゾーン選手権を勝ち抜いた国のほか、この最終予選で権利を得た4カ国の計8カ国がパリパラリンピックに出場する。だから、今大会には開催国であるフランスも遠く日本の地にやってきていたのだった。北米、ヨーロッパは車いすバスケの激戦区である。カナダ、ドイツは、今大会でもダントツの強さを誇っていた。一方、スペインには、2022年の世界選手権で日本が勝利している。グループBの予選リーグでは、カナダには敗北を喫しても、フランスとスペインからは勝ち星を得てリーグ2位で最終日のクロスオーバー戦に臨むことを日本は目指していた。初戦のカナダ戦では46対81、フランスとの対戦では55対38。想定通りの結果である。ところが予選リーグ3戦目となるスペイン戦では45対64でまさかの敗北。グループ3位となり、最終日にグループAの2位通過であるオーストラリアと対戦することとなったのだ。決定率の低さに苦しんだグループ戦今大会、グループリーグでの日本代表の決定率の悪さに目を疑った。初戦のカナダ戦では、3ポイントを含むフィールドゴール成功率ではカナダが58.1%をマークしたが、日本は36.8%。フリースローでは、カナダが72.7%に対し日本はなんと15.4%にとどまった。網本は8本のフリースローの機会があったが、そのうち1本しか決められていない。萩野真世、柳本あまねはともに2本のフリースローを外した。勝利したフランス戦でもフィールドゴール成功率は37.9%、フリースロー成功率も37.5%。負けたフランスのフリースローは、12本中8本を決めて66.7%を記録している。3戦目のスペイン戦では、主将の北田千尋とベテラン土田真由美がフリースロー成功率100%をマークしチームとして85.7%にまで押し上げたものの、フィールドゴール成功率は33.9%でスペインの43.5%の成功率の前に勝敗を分けた形となったのだ。「萩野は、大会直前の合宿ではシュート成功率がめちゃくちゃよかったんですよ。だから、なぜ、ここまで悪い数字になるのか。初日に力んで距離感に狂いが生じたのではないかと思っています」と、岩野博ヘッドコーチは語った。12人全員で掴んだパリ行きの切符グループ3位で最終日のオーストラリア戦に臨む日本には、当然後がない。負ければ、東京大会前に戻ってしまうのだ。アジア・オセアニアの強豪チームとして、オーストラリアとはこれまでも何度も対戦してきた。世代交代が進むオーストラリアだったが、今大会には12年ロンドン大会で銀メダルを獲得した時の主将だったブライディ・キーン、04年アテネ大会からローポインターながらチームの要であったカイリー・ガウチらベテランが出場していた。ゲーム序盤、両者とも得点が決まらない時間帯が続いたが、その後、網本、北田が躍動した。ディフェンスリバウンドから網本が放ったロングパスに北田がぴたりと反応して先制点をあげると、再び網本のアシストで4対0に。第1クォーター終盤には網本自身が3ポイントシュートを決め、13対4と大きくリードした。日本の守備は一貫して固く、メンバーチェンジをしても崩れることがない。また、ディフェンスでも、オフェンスでも、体格ではオーストラリアには敵わない日本が、リバウンドを取り続けて攻撃に繋げた。オーストラリアは、そんな日本の守備に翻弄され、8秒バイオレーションを繰り返すなど、明らかにオフェンスに迷いが生じていた。前半25対7で折り返した後半には、網本は4本のフリースローをすべて決めたほか、オーストラリアボールをスティールして、仲間の得点に繋げた。そうして、第4クォーター残り3秒の場面、網本は北田をアシストして3ポイントシュートを決めさせ、パリ行きの切符を掴み取ったのだった。今大会には、2022年のU25世界選手権で活躍した江口侑里のほか、高校生選手の小島瑠莉、西村葵も途中出場でチームに貢献した。U25の共同主将を務めた江口は、フランス戦の第2クォーターで途中出場すると、網本のアシストで3本、後半にも1本のゴールを決めて勝利を引き寄せた。「センターという役割を担っているので、交代したらとにかく1発目で決めることが仕事だと思っていました。考えすぎるとシュートが入らなくなるので、とにかくいつも通りに打つことだけに集中していました」ベンチスタートから効果的な得点を重ねた江口侑里また、小島もフランス戦でA代表初となる3ポイントシュートを決めた。この日は、自身16歳の誕生日でもあった。「誕生日に3ポイント決められて、試合後、チームの先輩たちからハッピーバースデーと言っていただけて、めちゃくちゃ嬉しかったです!」この日が16歳の誕生日だった高校生選手の小島瑠莉試合終了後、国際車いすバスケットボール連盟から正式にパリパラリンピック出場権のチケットを手渡された北田主将は、「今大会、高校生の若手選手からベテランまで12人全員がコートでプレーして切符を掴み取りました。そのことは、本当にすごく嬉しい。でも、今大会のような試合をしていたら、パリの本番では1勝もできない。自分たちの現実を見せつけられた大会でもあった。残り時間は少ないですが、できる準備をすべてやっていきたいと思っています」と、熱い気持ちを静かに語った。キャプテンの北田千尋はパリ出場を喜びながらも、本番を見据えて気を引き締めたさらなる高みを目指して自力でのパリパラリンピック出場権を獲得した女子日本代表。自力での出場は、2008年北京大会以来、16年ぶりである。網本は、この北京大会を経験している唯一の選手だ。「今回、初めてレペチャージ(最終予選)が行われた。開催国のフランスも含めて、どの国もすごく緊張して臨んだと思う。大事な一発勝負の場で結果を出すことができれば、パラリンピックや世界選手権という大きな夢の舞台に立てる。そのことを、若いメンバーにも伝えていきたい」最終日には、数多くの観客がAsueアリーナに詰めかけ、日本はその声援にも後押しされた。「会場には、車いすで応援してくれた小さな女の子もいました。その子たちが、こういう舞台に立ちたい、日本代表になりたいって思ってくれるように。それが続いていけるように、私はそのバトンを渡していきたいって思ってるんです」2008年北京パラリンピックで、日本は銅メダルをかけた試合でオーストラリアと対戦し、47対53で敗退した。北京大会に19歳で初出場した網本は、3位決定戦が終わった後のミックスゾーンでも同じように抱きついて、震えながら泣きじゃくっていた。あの日、初出場のプレッシャーと闘った網本が、今は、若手を引っ張りながら、勝利のプレッシャーと格闘している。本番は、これから。退けたオーストラリアの分まで、あるいは、パリパラリンピックに出場できない男子日本代表の分まで、さらなる高みを目指していく。取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと
車いすバスケ女子日本代表、パリ出場権獲得!

車いすバスケ女子日本代表、パリ出場権獲得!

パリ2024パラリンピックの出場権をかけた車いすバスケットボール女子の最終予選で、日本はオーストラリアに50対26で勝利し、パリ大会の出場権を獲得した。開催国枠で出場した前回の東京大会に続いて2大会連続、自力での出場は2008年北京大会以来16年ぶりの出場となる。最終予選は出場8カ国が2つのグループに分かれて総当たりで予選ラウンドを行い、その順位をもとに争うパリの出場権をかけて「クロスオーバー戦」を戦った。予選ラウンド、日本は初戦カナダに46対81で敗れたが、次のフランスに55対38で勝利。3戦目はスペインに45対64で敗れ、1勝2敗のグループ3位でクロスオーバー戦に臨むこととなった。対戦相手はもう一方のグループを2位で通過したオーストラリア。勝った方がパリの出場権を獲得できる。負け越しに終わった予選ラウンドでは重苦しい雰囲気があったものの、この試合はキャプテン北田千尋の「ダブルダブル」(18得点・18リバウンド)の活躍などで終始リードを奪い、50対26で快勝。岩野博ヘッドコーチが「一番いいバスケができた」という最高のパフォーマンスを発揮し、見事パリ行きの切符をゲットした。最終予選では、日本のほかカナダ、スペイン、ドイツが出場権を獲得。パリ2024パラリンピックは8月28日に開幕を迎える。写真/吉村もと
パリ2024オリンピック・パラリンピックのTEAM JAPANオフィシャルウェア発表!

パリ2024オリンピック・パラリンピックのTEAM JAPANオフィシャルウェア発表!

パリは「TEAM JAPAN RED」×「サンライズレッド」パリ2024オリンピック・パラリンピック競技大会TEAM▲JAPANオフィシャルスポーツウェア発表記者会見が行われ、パリで日本チームが着用するウエア・アイテムがお披露目された。東京大会に続きサプライヤーはアシックス社。パリ大会用ウエアは「パフォーマンスとサステナビリティの両立」とコンセプトに、優れた機能性を持たせながら環境に配慮したアイテムを提供することで、スポーツを守り、継続させるにはどうすべきかをアスリートとともに考えたい、との想いを込めたという。東京大会では目が覚める鮮やかなレッドが印象的だったが、今回もキーカラーにTEAM JAPANを象徴する「TEAM JAPAN RED」を採用。さらに「サンライズレッド」のグラデーションをあしらった。これは「パリの日の出」をイメージしたカラーで、朝焼けに空が赤く染まる力強さと暖かさを表現しているという。内側に着るTシャツには、伝統的な日本の吉祥模様である「矢絣(やがすり)」を取り入れたデザインを施し、決断や強さを表現。また、開発コンセプトである「パフォーマンスとサステナビリティの両立」に沿って「Conditioning(コンディショニング)」「Sustainability(サステナビリティ)」「Diversity(ダイバーシティ)」の3つのテーマを設け、寒暖差が大きいパリの環境への対応、温室効果ガス排出量の削減、多様性と調和を重視したチームの中で選手個人が輝けるウエアを目指したという。©JOC/JPC/ASICSパラスポーツ界からは廣瀬選手(ボッチャ)、宇田選手(トライアスロン)らが登壇発表会ではオリパラ合わせて15名のアスリートが登壇。パラスポーツ界からは陸上の新保大和、竹村明結美、田巻佑真、水泳の木下あいら、西田杏、車いすラグビーの若山英史、ボッチャの廣瀬隆喜、トライアスロンの宇田秀生の各選手が登壇した。また今大会のパラリンピック選手団長を務める田口亜希氏の挨拶も行われた。車いす選手が着用する上着はタイヤにあたる袖の部分が強化され、パンツのポケットは座った状態で使いやすい位置と角度につけられており、廣瀬選手は「車いすの選手に向けてデザインが考えられていてすごくうれしい」とコメント。ウエアについては「フィット感があって動きやすい」(新保選手)、「(片手でも)ファスナーがびっくるするほどスムーズ」(宇田選手)などの感想が聞かれた。「車いす選手へ向けてのデザインがすごくうれしい」と廣瀬選手 ©JOC/JPC/ASICSパラリンピック日本代表選手団の田口亜希団長鳥海選手は応援する立場からの気づきや変化に期待車いすバスケの鳥海連志選手は応援パートナーとしてゲスト出演そして、応援パートナーとして、元卓球選手の石川佳純さん、車いすバスケの鳥海連志選手がゲスト出演。鳥海選手は着用した白いTシャツについて、「夏に応援にどれだけ力が入ってどれだけ熱が出ても放出してくれる着心地。どれだけでも応援できそうなウエアです」と感想を語った。男子車いすバスケチームは惜しくも出場権を逃したが、鳥海選手は「タイで行われた予選では準決勝で負けてしまったのですが、日本に帰ってくる前に気持ちは切り替えていました。パリに出られない分、その次のロスに対しての準備期間が長く設けられる僕たちの立場があるということを確認しましたし、そこに向けていい準備とパフォーマンスを持っていくということに切り替えました。その中で、応援パートナーとしてパリに関われるということは、普段応援してもらっている立場から応援する立場に変わることで、何かしら自分の中で気づきだったり変化が起こるんじゃないかということも含めて、前向きにトライしてみようという気持ちになれました」とコメントした。鳥海選手から田巻選手に応援メッセージとミサンガが手渡された ©JOC/JPC/ASICSパリ2024オリンピックは7月26日、パラリンピックは8月28日開幕を迎える。取材・文・写真/編集部
パラスポーツコンシェルジュ事業(相談窓口・用具の貸出)を利用しよう!

パラスポーツコンシェルジュ事業(相談窓口・用具の貸出)を利用しよう!

(公社)東京都障害者スポーツ協会では、障害者スポーツに関する相談窓口として「パラスポーツコンシェルジュ事業」を実施しています。パラスポーツに関する相談はもちろん、用具の貸し出しも行っており、誰でも気軽に利用できます。<事業概要>1    相談窓口問い合わせやご質問への情報提供を通じて、個人、企業の「わからない・できない」を「わかる・できる」に変える相談窓口を設置2    障害者スポーツ用具の貸出ブラインドサッカー用ボール、ゴールボール用ボール、ボッチャセット、アイシェード、競技用車いす(条件あり)の用具貸出3    企業・団体による障害者スポーツ振興のための取組事例の紹介詳細はこちらへhttps://tsad-portal.com/tsad/conciergeリーフレットはこちらへhttps://tsad-portal.com/wp-content/themes/twentysixteen_child/movie/concierge/01/book/#target/page_no=1問い合わせ先パラスポーツコンシェルジュ専用電話:TEL 03-6265-6123受付時間 平日 10時~17時(12時~13時を除く)公益社団法人東京都障害者スポーツ協会〒162-0823 新宿区神楽河岸1-1セントラルプラザ12階
【パラバドミントン】パリ2024パラリンピック代表内定選手決定!

【パラバドミントン】パリ2024パラリンピック代表内定選手決定!

日本パラバドミントン連盟は、パリ2024パラリンピックの日本代表内定選手を発表しました。東京大会で金メダルを獲得した里見紗李奈、梶原大暉ら6人が選ばれました。車いす女子:里見紗李奈(NTT都市開発)、山崎悠麻(NTT都市開発)車いす男子:梶原大暉(ダイハツ)、村山浩(SMBCグリーンサービス)立位:伊藤則子(中日新聞)、今井大湧(ダイハツ)6人はいずれも東京大会に続き2大会連続のパラリンピック出場となります。写真/吉村もと
未来の子どもたちに持続可能な環境を残すため「HEROs PLEDGE」プロジェクト始動

未来の子どもたちに持続可能な環境を残すため「HEROs PLEDGE」プロジェクト始動

スポーツ界横断の「使い捨てプラスチックごみ削減プロジェクト」日本財団は、アスリートと共に社会課題解決の輪を広げていくことを目的とした「HEROs〜Sportsmanship for the future〜」において、地球規模で広がっている海洋ごみ問題や気候変動といった環境問題に対して、その原因のひとつである使い捨てプラスチックごみをなくしていくために、スポーツ界を横断して削減に取り組むプロジェクト「HEROs PLEDGE」を始動した。HEROs プロジェクトは、アスリートによる社会貢献活動を促進することで、スポーツでつながる多くの人々の関心や行動を生み出し、社会課題解決の輪を広げていくことを目的に、2017年に活動を開始。昨今、地球規模で海洋汚染が広がるとともに、世界各国で気候変動による異常気象が見られるようになり、日本でも猛暑や水害などが多発するなど、人々の日々の生活を脅かしているが、これらの問題はスポーツ界にも関係し、猛暑や雪不足で競技ができない状況が生じるなど大きな影響を及ぼしている。地球規模で広がっているこれらの環境問題の要因の一つと言われているのが、“使い捨てプラスチックごみ”だ。このプロジェクトは、ゴールである「スポーツ界から使い捨てプラごみゼロに」の実現に向けて、アスリートを起点としながら、協会、連盟、クラブチーム、ファン、消費者、そして企業とともに、スポーツ界が一体となり、力を合わせて取り組んでいく“スポーツ界を横断した使い捨てプラごみ削減プロジェクト”である。プロジェクトに参画するパラアスリートたちこのプロジェクトには現在、33名のアスリートと10組のスポーツ関連団体が参画。2027年度末に主要スポーツの興行において使い捨てプラスチックごみの半減を当面の目標とし、アスリートが起点となり、パートナーアスリートとともに使い捨てプラごみ削減の先進事例づくりに取り組むほか、プレッジ(宣言)機能を活用した一般生活者への発信、関連団体と連携した使い捨てプラごみ問題啓発のためのファン参加型のごみ拾いイベントなどを行う予定だ。日本財団は、本プロジェクトを通してアスリートやチームから正しい知識とアクションを発信し、海洋ごみ問題や気候変動などの社会課題の解決に繋げ、様々な人がスポーツを安心して実施できるような環境づくりを行っていくとともに、ファン一人ひとりが、海洋ごみ問題や気候変動問題に対してアクションを起こすきっかけ作りを目指している。3月28日に行われたプロジェクト発表会には、元競泳選手の井本直歩子さん、スキーノルディック複合の渡部暁斗選手、プロサーファーの都筑有夢路選手ら多数の参画アスリートらが登壇した。パラアスリートのコメントは以下の通り。一ノ瀬メイさん(パラ水泳元選手)「私自身は、4年前に環境問題を勉強したことをきっかけに、個人でできるアクションを続けてきました。ですが、正直、スポーツ界でアクションをしていると、変わり者扱いをされることが多かったです。少し前に井本(直歩子)さんに出会い、このプロジェクトがスタートしたことで、こんなにたくさんの仲間(参画しているアスリート)と出会うことができました。スポーツ界から新しい環境との向き合い方のスタンダードを築いていけるのではないかとワクワクしています。オリンピック、パラリンピックは、今まで平和の祭典と言われていることが多かったと思うのですが、これから先の未来もその言葉を本物にし続けるために、スポーツ界が気候変動や環境問題に加担している側から地球環境を再生する側に回っていく必要があると思っています。このプロジェクトを通じて私自身もそうしていけるようにしたいと思っています」発表会に登壇した一ノ瀬メイさん根木慎志さん(車いすバスケットボール元選手)「ここにいるアスリートは、多くの勉強会・現地視察を経て今日を迎えました。華々しくワクワクする気持ちでいっぱいです。今日登壇している12名のアスリート以外にも参画しているアスリートがたくさんいます。アスリートだけでなく勉強会の中で講師としてお話をしていただいた方や、共に活動するメンバーの方も多くいます。本当に今、環境問題が待ったなしの大変な状態になっているのは、みなさんご存知だと思いますが、こういう時だからこそ、アスリートの力で問題を解決していけるように、今日この日を迎え、まず宣言をし、スポーツ界から大きなムーブメントを起こしていきたいと思います」この2人のほか、久保大樹選手(パラ水泳)もこのプロジェクトに参画している。「HEROs PLEDGE」プロジェクトの取り組みに注目し、私たち自身も使い捨てプラスチックごみ削減に協力していきたい。資料・写真提供/HEROs PLEDGEプロジェクト(日本財団)
神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会 日本代表選手決定

神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会 日本代表選手決定

2024年5月17日(金)から25日(土)に兵庫県神戸市・神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で開催される「神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会」の日本代表選手が決定し、日本パラ陸上競技連盟より発表されました。今大会には世界約100ヵ国・地域から約1300人が参加する見込み。日本人選手にとってはパリパラリンピックの出場権をかけた大会でもあります。代表に選ばれたのは男女66名。男子では、東京パラリンピックで車いすクラス(T52)2冠に輝いた佐藤友祈が100mと400mにエントリー。昨年の世界パラ陸上選手権で視覚障害クラス(T13)400mで金、走幅跳で銀メダルを獲得した福永凌太(冒頭写真)が100m、400m、走幅跳の3種目に出場を予定しています。このほか5000m(T11)で東京パラリンピックで銀メダルを獲得し世界記録を持つ唐澤剣也が1500m、5000mを走る予定です。東京パラリンピック2冠の佐藤友祈5000mの世界記録を持つ唐澤剣也女子では3大会連続でパラリンピックに出場している髙桑早生(T64:走り幅跳び)をはじめ、昨年の世界パラ陸上でメダルを獲得した中西麻耶(T64:走り幅跳び)、齋藤由希子(F46:砲丸投げ)、澤田優蘭(T12:走り幅跳び)らが代表入りを果たしました。走り幅跳びでメダルが期待される中西麻耶代表選手は下記リンク先よりご覧ください。◆代表選手一覧(男子)◆代表選手一覧(女子)写真/吉村もと
パラメダリストを支えるオリメダリスト。星奈津美さんが木村敬一選手と目指すもの

パラメダリストを支えるオリメダリスト。星奈津美さんが木村敬一選手と目指すもの

パリ2024パラリンピックの水泳代表に内定した木村敬一選手を支えるオリンピアンがいる。バタフライでオリンピック2大会連続銅メダルを獲得した星奈津美さんだ。昨年から木村選手のフォーム指導アドバイザーを務めている星さんに話を伺った。木村敬一選手からの思いがけないオファー――星さんは、オリンピックで2大会続けてメダルを獲得した2016年のリオデジャネイロ大会の後、現役引退しました。この時、引退後にやりたいことや計画などはあったのでしょうか。星奈津美(以下、星) 良くも悪くもというか、引退したら絶対やりたい明確なものはなくて、計画も特にあったわけではなかったんです。ですが、何でもチャレンジしようと思っていて、その中で何か見えてくるといいなっていう想いがありました。ありがたいことにイベントや公演に呼んでいただいたり、メディアに出る機会もたくさんいただき、基本的には全部お引き受けさせていただいてきました。――世の中を知るような時間だったのですかね。星 そうですね、はい。自分がやれることはというか、お声がけいただいたら全部やってみようっていう感じで。――今は幅広く活躍されていますが、もともと選手を指導することは考えていたのですか?星 いや、それについては本当にまったくゼロで。水泳教室のゲスト講師などはオファーをいただきましたが、そういう場は本当に一度きり、参加してくださったお子さんとかマスターズの大人の方とかを相手に、教えると言ってもその日限りのことなので。ある程度長いスパンで選手の成長を見ていくのが指導というかコーチングだとしたら、そうしたオファーはまったくいただかなかったんです。そういうことには多分自分には一番縁がないのかなと思っていました。2016年に引退してから3、4年はこんな感じでやっていました。――そんなところに木村選手からオファーが。星 ちょうど1年前くらいに連絡をもらいました。――もともとお知り合いだったと聞きました。星 はい。同い年で、ロンドンがお互い最初にメダルを獲った大会という共通点もありました。オリとパラって選手の交流はあまりないんですけど、たまたま一緒に出るトークショーのイベントがあって、その時に一緒に写真を撮ったり、連絡先を交換したりしたんです。2012年ぐらいだったと思います。――木村選手から「教えてほしい」と言われた時はどんな気持ちでしたか?星 最初はちょっと相談があるみたいな感じでした。その時、木村選手にはコーチがいなくて探していたそうなんですけど、まさか自分だとは思わなくて、誰かコーチを紹介してくれないかっていうことだと思って話を聞いていたんですよ。私が教わっていたスイミングスクールのコーチとかいいんじゃない? とか話をしたんですが、私に見てもらいたいんだよねって言われて。――ご指名だったわけですね。星 意外でした。結構びっくりして。そもそも私はコーチをやってきている人間ではなかったですし、引退後にコーチになられる方はほかにたくさんいらっしゃるのに、なぜ私? と思いましたね。それにパラの選手を私がコーチできるのかっていうこともありました。――あまり現実的ではなかった。星 はい。でも、本格的にトレーニングメニューを作って毎日練習を見るというわけではなく、最初は月に1、2回泳ぎを見てほしいという話で。バタフライの泳ぎを変えたいのでフォーム改善のアドバイスだけしてもらえればと言うので、それならできるかなと思いましたが、決してふたつ返事ではなかったです。――自分でも大丈夫かな? と。星 そうですね。でも試しに泳ぎの水中映像があれば送ってほしいとリクエストしました。それを見て、どこがどうできるかなと考えたうえで決めた感じです。星さんは月に1~2回のペースで木村選手のバタフライのフォーム改善についてアドバイスをしている改善点があるだけに、まだまだ伸びしろがある――指導を始めて、木村選手の泳ぎには直すところはたくさんありましたか?星 気になるところは結構ありましたが、それだけに伸びしろもたくさん感じました。でもそれ以上に、この泳ぎを目が見えない状態で習得したのかと思うと、やっぱりすごいなと驚きましたね。しっかり泳げているし、タイムも出ている。見よう見まねってことをしていないのにすごいなと。――木村選手の泳ぎはパワフルで粗削りな印象で、それが木村選手らしさだと思いますが、星さんから見てどうだったのでしょうか。星 私の印象も本当に同じで、100メートルを最初から最後までもうパワーで引っ張っていってるというか、すごくパワフルな泳ぎだなって感じました。だから、同時に硬さもあるかな、という印象でしたね。――アドバイスはどのようなことから始めたのでしょうか。星 まず、硬さというか、力の強弱、緩急みたいなものについてです。力の入れどころと抜きどころ、みたいな。私自身の泳ぎでも、ここは力を入れて、ここは抜いてって意識してやっているわけではないんですけど、泳ぎを覚えていく中で自然にできるようになっていくその部分が、木村選手の場合気になりました。――子供の頃からやってると自然に身につく部分ですかね。星 はい。それで、どこで力入れてるのかなと改めて考えてみて、自分でも泳いで確認したりしました。木村選手の場合は力を入れたら入れっぱなしだし、抜いてもらうとそのまま抜けちゃうし、極端に言うと0か100かみたいなところがあったんです。まずはそれを陸上で練習しました。――どちらかというと力の抜き方ですか?星 そうですかね。でも、力を入れるべきところが入っていなかったりっていう部分もあったんですよ。一番は体幹。腹筋の入れ方がちょっと違ってるのかなと。腹筋をまったく使っていないわけではないんですけど、正しく力を入れられていないところがあって。専門用語でドローインっていう表現があるんですが、腹圧を入れる時ちょっと下っ腹の方をへこますようにするんです。この動きは水中でいきなりできないのでまずは陸上で練習して、お腹の動きができるようになったら、次に手を動かしながらそれをやって。それから水中でやるという順番で練習します。木村選手は力の入れ方がちょっと 違っていたというか、彼の感覚と違っていたみたいで、それによってお腹がちょっと突き出て、背中が反るみたいな姿勢になっていました。――泳いでる時ですか?星 泳いでる時の姿勢もそうですし、普段立ってる時もそんな感じの時が多いんですよ。水泳では、胸は張らなきゃいけないけど腰は反っちゃいけないみたいな矛盾するような動きが必要です。胸を張ろうとすると普通腰は反るんですけど、そこでちゃんと体幹が入っていれば腰を反らずに胸を張れるんです。その動きを結構イチからやりました。木村選手もまったくやっていなかったわけではなかったみたいでしたが、それがきちんとできていなかったために水中での姿勢がうまくいかない感じでした。壁を蹴った後、まっすぐではなくちょっと反った感じのままドルフィンキックを蹴っていて、それだけでも結構抵抗になったりしますし、腹筋が使えていない蹴り方だったのでそこから直していった感じです。――体幹、強そうですけどね。星 そうなんですよ。筋肉はあるし、しっかりしているんです。でもやっぱり使い方なんですね。――そこから始めて約1年、どのように変わってきましたか?星 姿勢の部分は結構すぐにできましたね。そこから次は手のかき方とかキックを打つタイミングとかをやりました。かき方については、木村選手は手が水に入った後、真下に押しているような感じだったんですよ。その時に肘も下げてしまっていて。前に進むためには後ろにかかないと体が前に行かないんですが、下にかいてしまうことで上体が立ち上がるような、上半身が水面の上に出てしまう泳ぎになっていました。手をちょっと外に開いてそこから内側にかき込んできて、それから後ろに押していくっていうストロークが理想なんですけど、それをやってもらったら、上半身の上がり方が少し抑えられてきたっていうところがひとつ。あとはキックを打つタイミングで、バタフライって最初手が水に入る瞬間に打つ1回目のファーストキックと、そこから手をかいてきて、かき切る時に入る2回目のセカンドキックっていうふたつのキックがあるんですけど、木村選手はどちらのキックもタイミングが早かったんですよね。それも体が起き上がってしまう原因でした。――今日、木村選手の泳ぎを拝見したんですけど、以前より動きがだいぶスムーズになった感じがしました。星 硬さがあった部分に少しずつ滑らかさが出てきているような感じは私もしています。――豪速球で押していたのが、コントロールも良くなったというか。星 そうですね、コントロールですよね。ずっと力が入っていることもなくなって、入れなくてもいいところが抜けてきたというか、少しずつできている気がします。この日は腕で水をかききってから空中で前に戻す部分の動きを重点的に練習した。右はコーチの古賀大樹さんパリ大会で結果よりも重視すること――さて、パリパラリンピックが間近に迫ってきましたが、そこへ向けてのプランなどはあるのでしょうか。星 木村選手からこのお話をもらった時、私が躊躇しながらも何かお手伝いができたるかなって思えたのは、彼が東京で金メダルを獲ったことで、自分の目標をひとつクリアできたっていうところがありました。だから、次は新しいことにチャレンジしたいっていうことで、フォームを変えることに踏み切ったと。――なるほど。星 金メダルを獲った選手のフォームを変えるなんて、すごく責任がありますし、ものすごくプレッシャーでした。もし速くならなかったらどうしようって。でも、別にそれはそれでいいと。まずはフォームの改善がどこまでできるかが大切で、金メダルをまた獲ることより、そっちにチャレンジしたいと言われたので。視覚障がい者の自分が可能性を示したいということも言っていて、それに携われるならという気持ちで私もお手伝いをしています。なので、パリでどれくらい期待できますかって聞かれたら、正直現状、記録はそこまで期待できないと思うんですよ。泳ぎを変えることは、やっぱり健常の選手でも相当難しいですし。泳ぎ自体はだいぶ良くなってきていますが、あと半年くらいでどこまで改善できるのか、高い泳速でどのくらいできるのかはわかりません。まずは泳ぎを変えたいっていう本来の彼の目的を、本番までに確立することが最優先かなと思っていますし、彼も同じことを言っているので。高い泳速で100パーセントできるようになったら、自ずとタイムも速くなってくると絶対に言えますが、今はタイムより泳ぎをしっかり定着させることに尽きるかなと思っています。オリンピアンとパラリンピアンの新たな関係――コーチする相手が視覚障がい者ということについてはどうですか?星 特別意識をしているつもりはないんですけど、一緒に過ごす時間が増えてわかったのは、木村選手はこちらに気を使わせないようにするんですよね。自分が気を使わなきゃいけないって思っていたんですけど。ちょっとしたことですごく失礼なことしちゃったなと思うことも多いですが、木村選手が私に気にさせないようにしてくれているのかもしれなくて、ありがたいなって思うことはすごく多いです。それもあって、遠慮しすぎたりとか、気を使いすぎたりするのはそんなにしなくてもいいのかなっていうのは感じています。――そうなんですね。星 タッピング(※ターン時などに選手をスティックで叩いて壁までの距離を知らせる)も、最初は練習でもすごく緊張して、今でもちょっとタイミング早かったかなとか、近かったかな、遠すぎたかなとかすごく思うんですけど、木村選手は、全然気にしてないよ、わかればいいよみたいな感じで言ってくれるので、そういうところもすごく助かっていますね。――タッピングは見ていても難しそうです。星 本当に。最初は私がやるとは思っていなくて。慣れている人がやらないと危ないじゃないですか。でも、基本的に一人の選手に対してタッパーは両サイドに一人ずつ、二人必要で、最初は連盟のスタッフの方が手伝ってくれていて私はやっていなかったんですけど、見ていると私も入ったほうがいいのかなと思って聞いてみたら、ぜひそうしてもらえると助かると言われて。最初はゆっくりのスピードの時にやるようになって、今では試合でもやっています。――バタフライ以外の種目も?星 はい。でも、バタフライが一番怖いんですよ。両手を回すのでタッピングを失敗してしまうと選手が顔面から壁にぶつかってしまう危険性があるので。タッピングは特にバタフライでは神経を使うという星さん――木村選手とのコミュニケーションについてはどうですか?星 うまく言葉にできなかったかなとか、伝えられなかったかなっていうのは日々ありますね。最初は一緒にプールに入って、手を持ってこの動きがこうでとか実際に体に触れてやることも必要でしたが、泳ぎを教えるうえでも何かを伝えるうえでも、基本的に全部言語化する必要があるので、そこに関しては本当にいまだにうまくできていないです。――難しいですよね。星 自分でやってそれを見せることができないので、全部言葉にしないと。肘を下げないでとか、手のひらが先行でとか言っても、100パーセント伝わっているかはすごく不安です。でもそれは、私の勉強というか学びでもあるので。今はオリンピックに出ている男子選手の泳ぎに近づけるのは無理ではなくて、本当シンプルにやろうと思えばできるかもしれないと思ってやっています。――オリンピアンがパラリンピアンに指導するケースは今までないと思いますが、ご自身はどう思っていますか?星 最初はあまり意識していなかったんですけど、メディアの方とかに言われる機会が多くて、今までない、と言われると、確かになって思います。でも、それだから始めたことではないですし、木村選手とこういう関係になったことによって、普段練習してるNTC(※ナショナルトレーニングセンター)ではオリの選手も一緒になるので、みんな声をかけてくれたりするんですよね。木村選手も話しかけてもらうとすごく喜んでいますし、オリとパラの関係性みたいなものが、ちょっと変わっていくきっかけになったらいいなと思ったりします。――そういう繋がりは、これから増えていってほしいと思います。星 はい。たとえば、健常選手と障がい選手が同時に大会をやるのは、ハードルが高くて難しいことだとはわかるんですけど、一緒にできるところはあると思いますし、私も今のような関わり方をするようになってすごく感じるので、ぜひそういう機会が作れて、増えていってほしいと思います。――一緒にやることでわかることってありますものね。星 そうなんですよね、本当に。そんな大きいことは言えないですけど、何かきっかけになればいいなと思います。――ぜひがんばってください。星 はい。まずは木村選手と一緒にがんばります。――期待しています。本日はありがとうございました。星 奈津美(ほし・なつみ)/1990年、埼玉県生まれ。1歳半で水泳を始め、バタフライ選手として活躍。高校時代は1、2年時にインターハイ優勝、3年時は日本選手権で高校新記録を出し北京オリンピック日本代表に選ばれた。16歳で患ったバセドウ病と闘いながらもオリンピックに3大会連続出場し、2012年ロンドン、2016年リオでは200mバタフライで2大会連続の銅メダルを獲得。世界水泳では2015年に日本人女子選手として初の金メダルに輝いた。2016年に現役引退後は水泳教室、企業や学校での講演活動やバセドウ病への理解促進など多方面で活動。2023年から木村敬一のフォーム指導アドバイザーを務める。木村敬一(きむら・けいいち)/1990年、滋賀県生まれ。増殖性硝子体網膜症により2歳で視力を失う。小学4年で水泳を始め、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚支援学校)に進学し、水泳部に所属。2008年、高校3年で北京パラリンピックに初出場、12年ロンドン大会では100m平泳で銀、100mバタフライで銅メダル。16年リオ大会では、50m自由形、100mバタフライで銀、100m平泳、100m自由形で銅メダルを獲得。東京大会では、100mバタフライで金、100m平泳で銀メダルを獲得した。著書に『闇を泳ぐ』(ミライカナイ)がある。取材・文・写真/編集部 協力/東京ガス株式会社、株式会社RIGHTS.、ルネサンス赤羽
自分の水泳を追求する。パリ2024パラリンピックに挑む木村敬一(水泳)

自分の水泳を追求する。パリ2024パラリンピックに挑む木村敬一(水泳)

3月9、10日行われたパラ水泳春季チャレンジレースでパリ2024パラリンピック日本代表推薦選手に選ばれ、代表に内定した木村敬一。東京2020大会で悲願の金メダルを獲得後、昨年から五輪メダリストの星奈津美さんをバタフライのフォーム指導アドバイザーに迎えてさらなる進化を目指している。練習を訪ね、近況とパリ大会への想いなどを聞いた。パラ水泳春季チャレンジレースでの木村敬一のバタフライの泳ぎ。代表内定を獲得した東京で目標を達成。次に見つめるものとは――木村選手は、東京パラリンピックでご自身が「人生最大の目標」と位置付けていた金メダルを獲得しました。大会直後、金メダル獲得を上回る目標が見つからないとおっしゃっていましたが、パリ大会へ向け、どのように気持ちを切り替えていったのですか。木村敬一(以下、木村) 目標として、もしかしたら上回ってはいないかもしれないですけど、水泳を続けていく中で、まだやれていないことがいろいろあるなって思っていました。せっかくここまで水泳をしてきたので、やれることがある以上はやってみたいなっていう。――「やれること」とは具体的に何ですか。木村 泳ぎの技術的な進歩ですね。今までは本当にどうにか自分のできる限りの体力練習の中で、フィジカルを強くして、強くなっていこうってことをやっていましたけど。それ以外にも泳ぎの技術のところで変えられるところがまだまだあって、それが伸びしろだっていろいろな人から言ってもらえたので。自分でも、それはまだできていないところかなと。――パラリンピックのメダル云々ではなく、自分の水泳に対してということですかね。そんな中で、長年タッグを組んできた寺西真人さんと離れることになりました。木村選手とって大きな出来事だったのではないかなと思うんですけど。木村 でもまあ、なんていうか、歳ですからね(笑)。そこにそんなに大きな決断をしたつもりは僕にはなくて。大学生になった時やアメリカに拠点を移すことになった時も一緒に練習していたわけではなかったですし。たまたま東京パラリンピックの時は一緒に練習してましたけれども。コロナがなかったら東京の前に日本で練習することはなかったと思いますし。――なるほど。「寺西さんロス」のようなことはなかった。木村 そうですね。そこまで大きな出来事じゃなかったかなと思います。もちろん、子供の頃から見てもらっていた先生と、大会前に一緒に練習ができ、金メダルを獲る瞬間も一緒にいられたというのは、忘れられない思い出になりましたし、自分にとってはすごく良かったです。東京大会では100mバタフライ(S11)で金メダル。子供のころから指導を受け、この日はタッパーを務めた寺西真人さんと抱き合い嗚咽した五輪メダリストとタッグを組んで目指すパリでの泳ぎ――現在、五輪メダリストの星奈津美さんにバタフライのフォーム指導を受けていますが、どのような経緯だったのでしょうか。技術的な進歩を狙って、ということかと思うんですけど。木村 流れとしては、最初は深く関わってもらうという感じじゃなくて、たまたま星さんと食事した時に、まだ何か技術的にやれることがあるらしいんだっていうことを話したら、水中での泳ぎ見てみないとよくわからない、って言われたんです。じゃあ試しに見てもらおうというところから始まって、徐々に練習の回数を重ねていく中で、もうちょっとやれることがあるような気がすると言われました。いろいろ見るのであれば、普段の体力面の練習からどういうことやっているのか知っておきたいと言ってくれたので、それで今の形になっていった感じですね。――いつ頃から始めたんですか。木村 ちょうど1年前です。――実際指導を受けてみて、どんな変化を感じていますか?木村 指導というよりは、一緒に泳ぎっていうものを考えて、最適なものにしていく作業を手伝ってくれてる感じなんです。星さんは本当に速く泳いでいた人なので、何か感覚的なところで学べることがあればいいなと思いながらやっています。指導をしてもらってるというよりは、一緒に泳ぎを作っていく関係ですかね。――以前からお知り合いだったんですよね。木村 そうですね。たまたま年齢が同じで。何度かオリパラ合同のイベントなどでご一緒する機会がありました。――星さんと一緒に泳ぎを作っていく中で、これまでためになったり、取り入れたりしたポイントはありますか?木村 いろいろあるのでひとつ挙げるのはなかなか難しいんですけど、最初は本当に姿勢作りのところとか、腕の軌道のこと、手と足のタイミングのこととか。泳ぎにはいろいろな要素があるので、本当にさまざまですね。――今日は腕のタイミンを練習していたようですが。木村 腕の、特に水をかききってから空中で戻すところの作業を重点的に練習しました。手を空中で戻している瞬間っていうのは推進力にならないので、そこで余計な力を使わないように。この部分はないに越したことない時間なんで。だからできるだけ力を抜いて処理したい。それをするためには、どのタイミングで空中に上がれば余計な力を使わずに腕を前方へ戻せるか。その練習ですね。――実際、そうやって泳ぎを作っているのはバタフライだけなんですか?木村 星さんにはバタフライだけ見てもらっています。自由形の練習もしているんですけど、バタフライと共通するところはあるので、バタフライの練習の取り組みが自由形に生かせているというか、応用できることはたくさんありますね。ここ(※ルネサンス赤羽)のプールは結構あたたかくて底に足も着くので、本当にこうゆっくり泳ぐ練習に適していて、今日のようにしっかりとゆっくり喋りながら時間をかけて技術的な練習ができます。――これまで自己流というか、自分の感覚を頼りに泳ぎを作ってきた、と以前お聞きしたことがありますが、星さんの指導を受けて変わってきた感覚はありますか? 泳ぎを拝見していると、良い意味で粗削りだったフォームにスムーズな感じが加わってきたように見えましたが。木村 今日に関して言うと、そういうところはあるのかもしれないですけど、ただ、何か新しいことを習得するというよりは、余計なところを削っていってるような作業なのかもしれないです。――さて、木村選手にとっては5回目のパラリンピックとなるパリ大会が迫ってきました。目標を教えてください。木村 やっぱり出る限りは少しでも速く泳ぎたいし、ひとつでも高い順位でいい色のメダルを獲りたいと思います。ただそのためには、バタフライに関して言うと、どうしても大きな変化を出さないとそれができないんだろうなって一方で思うんです。今まで通りの泳ぎをしたところで、おそらく自己ベストを大幅に更新していくっていうのはちょっと難しそうだと思うし、最近のライバルの情勢とかを考えても、普通にやって勝てるわけじゃなさそうっていうのもあるので。バタフライではものすごい大きな変化というか、イノベーションに近いものが起きないとダメだと思っています。その大きな変化を出した泳ぎをしっかりとパリの舞台で発揮できるような準備をしていきたいなって思っています。――東京では自由形でもメダルを獲りましたが、パリではバタフライを一番重視していると。木村 はい、そうですね。――私たちも木村選手の泳ぎに注目し、活躍を期待しています! 木村 ありがとうございます。がんばります!東京大会で金メダルを獲得したときの泳ぎは粗削りながら力強さが印象的だった五輪メダリストの星奈津美さん(左)にバタフライのフォーム指導を受け、自分の泳ぎを追求している。右はコーチの古賀大樹さんパラとオリのギブ・アンド・テイクを目指して――一昨年、レガシーハーフマラソンを走りましたよね。木村 はい。マラソンは初めてだったので、すごくきつかったです!――見事に完走しました。木村 どうにか(笑)――マラソンを走ることでパラスポーツを広めていくという考えもあったのではないかと思いますが、そのあたりはいかがですか。木村 そうですね。東京でパラリンピックが行われたことで、たくさんの方がパラスポーツに関心を持ってくれるようになったとは思うんですけど、 やっぱり自国で開催するっていうのは最後の切り札というか、これ以上広げる方法はないと思うんです。だからここから先は放っておいたら盛り下がる一方なんですけど、これはある意味しょうがないんですよね。だから私たちとしては、いろいろな話題を作り続けるというか、何かおもしろいことをやり続けないとダメだなっていうふうには思っていて。マラソンがそれに当たるかどうかはわからないんですけど、でもやっぱり東京が最ピークだったって終わるのはあまりにも寂しいことなので、しっかりとこの先もひとつのおもしろいスポーツとしてあり続けるためには、 何かしらの工夫を続けていかないといけないんだろうなと思っています。――パラスポーツをもっと普及してくために、考えていることはありますか?木村 ちょっと思っているのは、今自分はこうやって普通に水泳をしているだけですけど、星さんのようなオリンピック選手が加わってくれるっていうのは、ひとつの競技スポーツとして時間が進んでいる現れだと思うんです。だから、そういう人の力を借りるのもひとつの方法なんだろうなと思ってます。――オリとパラの融合。木村 融合まではまだまだ。今は、協力ですかね。パラからオリに対しても何かしらのメリットを出せれば融合になるんでしょうけど、今のところ圧倒的にパラが恩恵受け受けまくっていますね。ギブ・アンド・テイクになってないない感じです。もうちょっとパラの方もオリンピック選手たちに対して、少しでも有益なものを提供できないとダメですね。――そういう役割を木村選手が果たしてくれると、パラスポーツがもっと発展していくと思いますので期待しています。本日はありがとうございました。木村敬一(きむら・けいいち):右/1990年、滋賀県生まれ。増殖性硝子体網膜症により2歳で視力を失う。小学4年で水泳を始め、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚支援学校)に進学し、水泳部に所属。2008年、高校3年で北京パラリンピックに初出場、12年ロンドン大会では100m平泳で銀、100mバタフライで銅メダル。16年リオ大会では、50m自由形、100mバタフライで銀、100m平泳、100m自由形で銅メダルを獲得。東京大会では、100mバタフライで金、100m平泳で銀メダルを獲得した。著書に『闇を泳ぐ』(ミライカナイ)がある。星 奈津美(ほし・なつみ):左/1990年、埼玉県生まれ。1歳半で水泳を始め、バタフライ選手として活躍。高校時代は1、2年時にインターハイ優勝、3年時は日本選手権で高校新記録を出し北京オリンピック日本代表に選ばれた。16歳で患ったバセドウ病と闘いながらもオリンピックに3大会連続出場し、2012年ロンドン、2016年リオでは200mバタフライで2大会連続の銅メダルを獲得。世界水泳では2015年に日本人女子選手として初の金メダルに輝いた。2016年に現役引退後は水泳教室、企業や学校での講演活動やバセドウ病への理解促進など多方面で活動。2023年から木村敬一のフォーム指導アドバイザーを務める。取材・文/編集部 写真/堀切功(東京パラリンピック)、吉村もと、編集部 協力/東京ガス株式会社、ルネサンス赤羽
国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―後編―

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―後編―

国枝慎吾と藤本怜央。生まれ年は1年違うが、いわゆる同級生。ともに、2004年アテネでパラリンピックデビューを果たし、東京2020大会まで5大会連続出場して日本のパラスポーツを牽引してきた。「怜央(レオ)くん」「シンゴ」と呼び合う2人が語る、今、ここから――。(前編より続く)車いすバスケの動画を投稿したら、パトリック・アンダーソンから連絡きたよ。「オレがシンゴのチームに入る」って(国枝)――国枝さんは、現役引退直後から車いすバスケットボールを楽しんでいらっしゃるとか。何か、きっかけがありましたか。国枝 子どもの頃からやってみたかったスポーツだったから、引退してやっとできるようになったという感じです。藤本 シンゴが引退してすぐに「バスケを始めたんだけど、シュートが入らないから教えて」って連絡がきたんだよね。国枝 自分の動画を撮って送ってね。藤本 それで自分のシュート動画とか送って、こんなところに気をつけてみて、とかアドバイスを送ったの。国枝 怜央くんが帰国するタイミングで一緒にバスケをしたいという話になって、成田空港から直接体育館に来てもらいました。でも、まだまだ車いすバスケはちんぷんかんぶんで、わからないことばっかりだよ。藤本 いや、すごく上手いよ!国枝 バスケのボキャブラリーについていけてない。「ピックかけろ」とか「クロス」とか言われて、何?何?って(笑)。――今日は反対にTTCで藤本選手が初めて国枝さんの指南を受けて車いすテニスを経験されました。いかがでしたか。藤本 いやあ、テニスって繊細なスポーツだよね。手首の角度とか、バスケットをやっている時には気にしたことなかったところがすごく気になる。国枝 いや、あれだけいいスピンをかけられるなんて、センスあるよ、絶対!藤本 あんな小さな球を打つのも大変だけど、ラケット持ったまま車いすを操作するのも超人的だよ。さっきは、受けやすいところにボールを出してくけど、実際は前後左右にボールを振られるわけでしょう。国枝 車いすテニスの場合は、ずっと動いているよ。藤本 それって、相手の出方や球のコースを読んで、予測して動いているんだよね。国枝 たった1回で本質を理解しているのがすごいよ。藤本 以前、車いすテニスをやっていた人を集めて新しいバスケチームを作るとか、言っていたじゃない。国枝 実は(パトリック)アンダーソンから連絡もらったんだよね、オレがシンゴのチームに入るよって。藤本 マジ!? そんなこと言うのはシンゴだけだよ。国枝 3、4月ごろかな。SNSでバスケの動画を投稿したら連絡が来て、日本でプレーするぞって。それで天皇杯のスケジュールとかすぐに送ったんだけど、その後はぱったり、連絡が途絶えた(笑)。多忙なスケジュールの合間に車いすバスケと車いすテニスのプライベート合宿を敢行。ハードな走り込みの後にフリースローをする練習に「きついけど、楽しい!」車いすバスケのチームを作って車いすテニスのダブルスに挑戦しよう!藤本 オレも、車いすテニスやってみたら、すごく楽しかったな。どう、ダブルスとか?国枝 やる? いいね! 怜央くん、前にいて圧かけてくれればいいから。藤本 めちゃくちゃ鍛えてくれていいです!国枝 それが実現したら、またテニスが楽しくなりそうだよ。――国枝さんには現役時代、「オレは最強だ!」という自分を奮い立たせる大切なキーワードがありました。藤本選手には、たとえばフリースローの時などに自分に言い聞かせるような言葉など、あるのでしょうか。藤本 ない。オレ、何も考えない。試合している時って、音が聞こえてないの。国枝 え、それって最強!藤本 フリースローだけじゃなくて、シュートを打つ場面で毎回、なんの音も聞こえてない。ただリングを見て、そこに中指を揃える。1秒あればシュートは打てるって思ってるからプレッシャーはないんだ。国枝 それはすごい。調子が悪い時もあるわけじゃない。藤本 もちろんシュートを外す時はあるけど、もうずっと前からそういうマインドでプレーしてる。車いすバスケットはチームスポーツだから、その日、その試合でのヒーローはそれぞれ変わったりするよね。オレ一人でプレーしているわけじゃないというのが逆に強みになる。国枝 ほう。すげぇ。藤本 チームメイトを助けるし、助けられているんだよね。みんなの調子が良くても、ちょっとフィーリングがズレると、負けたりする。でも、自分がコートの中で崩れることは、ほぼないと思ってるんだ。国枝 音も聞こえず考えずにプレーできるって、強い。オレは、コートの中では、常に次の展開、状況判断、いろんなことを考えながらプレーしていたよ。藤本 オレ、もしテニスがうまくなっても、シングルスはやりたくないなあ(笑)。ミスしたら負けるとか、これ決めたら勝つとか、できそうもないや。国枝 うん、勝ち切るほうがむずかしいね。――車いすテニスでは、小田凱人選手という若いヒーローが誕生して、一気に世界ランキング1位に上り詰めています。車いすバスケットボールでは次世代選手たちについて、どんなバトンを渡したいと思っていますか。藤本 みんな、すごいし、みんななんとかしてやりたいという気持ちがあるんだけど…。オレは赤石(竜我)。日本がギリギリの勝負のところに入ったら、赤石がキーになると思ってる。赤石が起爆剤になったら、東京の時よりももっと強いチームになるんじゃないかな。国枝 それは、本人に伝えたりしたの。藤本 7月の合宿の最後に、チームが強くなるためにはお前がやんなきゃダメだよって。オレ、やりますって、目をギラギラさせて話を聞いてたよ。国枝 スポーツは循環していかないと、発展しない。僕にとっては、齋田(悟司)さんが同じような存在だったから。藤本 オレも大島(朋彦)さん。国枝 先輩たちから受けたバトンが確実に次に渡っているよね。それは引退して、なお一層、感じるようになった。藤本 そうそう、自分が引退したら、2人で車いすバスケットのチームを作って、車いすテニスのダブルスを始めようよ!国枝 いいね! 楽しみだ。藤本怜央(ふじもと・れお):右/1983年9月22日、静岡県生まれ、宮城MAX/RSV Lahn-Dill所属。4.5クラス。小学3年の時に交通事故で右足の膝下を切断。小学校時代は義足でサッカーを、中学・高校時代には一般のバスケットボールに熱中した。高校時代に車いすバスケの存在を知り、スピードに魅せられて転向。2004年アテネパラリンピックに日本代表として初出場し、2020東京大会まで5大会連続出場。東京パラリンピックでは悲願の銀メダルを獲得した。国枝慎吾(くにえだ・しんご):左/1984年2月21日、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍となり、11歳で車いすテニスを始める。2004年アテネパラリンピックに初出場し、ダブルスで金メダル。06年アジア人として初の世界ランキング1位に。08年北京、12年ロンドンパラリンピックシングルス2連覇、さらに東京2020大会ではシングルスで3度目の金メダルを獲得。22年ウインブルドンで優勝し、生涯ゴールデンスラムを達成。23年1月、世界ランキング1位で現役を引退した。取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/吉田記念テニス研修センター(TTC)※この記事は『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月27日発刊)から転載したものです(一部修正あり)。表記などは取材時のものですのでご了承ください。

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