出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1522 平凡社『や、此は便利だ』と「新しい女」

 平凡社に関してはかつて「平凡社と円本時代」(『古本探究』所収)、『近代出版史探索Ⅱ』240などを書いているけれど、その後 入手したものもあるので、これらを取り上げてみる。

 『平凡社六十年史』には「創業前史」として、下中弥三郎の生い立ちから大正三年までの軌跡が五〇ページにわたり、丹念にたどられている。だがそれは要約しかできないし、また『近代出版史探索Ⅶ』1333でも下中に言及しているけれど、ここでは鈴木徹造『出版人物事典』の立項を挙げてみる。

   出版人物事典: 明治-平成物故出版人

 [下中弥三郎 しもなか・やさぶろう] 一八七八~一九六一(明治一一~昭和三六)平凡社創業者。兵庫県生れ。独学で教員検定試験に合格、小学校、師範学校で教鞭をとる。一九一四年(大正三)『や、此は便利だ』という小型本を著し、成蹊社から出版したが同社が倒産したため通信販売を行い、一四年平凡社を創業した。二三年(大正一二)株式組織として本格的出版活動をはじめ、円本ブームにのって『現代大衆文学全集』全六〇巻、『世界美術全集』全三六巻を刊行、大ヒットし、三一年(昭和六)から三四年(昭和九)にかけての『大百科事典』全二八巻によってその名を高めた。(第二八巻は総索引で昭和十年刊行―引用者注)以来、何度かの経営危機にも瀕したが困難に克ち、多くの事典、全集など重厚長大の出版物が出版界で重きをなした。(後略)

 この『や、此は便利だ』と平凡社創業のことも、『平凡社六十年史』にその初版の書影、内容、奥付なども含んで、八ページに及んでいる。それによれば、大正三年四月に判型は袖珍本、三〇二ページ、定価七十五銭で、成蹊社編輯局を著者とし、発行者を秋永常次郎=東洋とする『や、此は便利だ』が刊行された。だが実質的に編集を担ったのは下中で、埼玉師範で教鞭をとっていた際に、学生の文学知識の足りなさ、用字、用語の使い方の間違い、常識的な外来語、流行語、新聞語に関する無知に気づき、新聞語の解説と文字便覧とを一本化すれば、喜ばれるのではないかと考えたからだ。それを成蹊社の秋永に話すと、「や、此は便利な本ですな」との返事があり、出版を引き受けてくれたので、秋永のその言葉をそのままタイトルとしたとされる。

  

 だが秋永に関して、それ以外のことはわからず、『や、此は便利だ』は好評のうちに版を重ねたが、他の出版物でつまづき、その紙型も債権者に押さえられてしまった。そこで下中は借金をして紙型を買い取り、自宅の谷中初音町を根拠地とし、妻の緑による命名の平凡社を興すことになった。その大正四年と大正九年増補版の書影、及び昭和五年の「増訂百二十八版」のちらし広告を見ると、その後も増補改訂が続き、大正だけでなく、昭和になってもロングセラーとなっていたようだ。

 しかしそれにもかかわらず、古本屋で『や、此は便利だ』を見かけることはなかった。このような実用的辞典は、よく読まれた大正、昭和、戦前の大衆文学単行本と同様に、古書市場においても、もはや稀覯本に近いものになっているのではないかと思われた。ところが前世紀も終わりに近づいた平成十年に平凡社創業八十五年、下中弥三郎生誕百二十年の記念出版として、『や、此は便利だ』の非売品復刻本が恵送されてきたのである。これは本文を大正五年十二月の大増補二十四版、表紙は初版の装丁を採用したもので、ここにようやく「正味ばかりの本」として知られた『や、此は便利だ』を手にすることができたのである。大正五年版ゆえか、本扉には下中芳岳=弥三郎、秋永東洋共編とあるが、奥付の著作兼発行者名は確かに下中緑、発行所は平凡社と記されている。

 とりあえず、第一篇「新聞用語解説」のうちの「最新の例語並に流行語」から「新しい女」の立項を引いてみる。これは「偶像破壊主義(アイコノクラズム)」に続く二番目のものである。

 新しい女
(一)従来、男子に対して、絶対的に盲従(もうじ)し来れる夫人の境遇より覚めて、婦人も人間である、人間である以上、人間(人格)として取扱はれたいとの要求の下に、自覚的に活動せんとする婦人の総称。
(二)右の如き真面目なる主義主張のあるのではなく、徒らに、現在の不健全なる言論に煽動(おだて)られて、徒らに奇を行ひ、新を喜び、我がまゝ勝手なる振舞を敢てして得意がる一群の婦人を侮蔑的意味で呼ぶ語。(婦人問題を看よ)(一)を「覚めた女」などともいふ。


 ここでは「婦人問題」よりも、『近代出版史探索Ⅵ』1054の生田花世などの関係から、「ブルーストッキング」を引いてみると、「ブリュー・ストッキング(Blue stocking)」として立項が見出された。一七五〇年頃、ロンドンの文学美術の会合で、一人の女流作家が青い靴下をはいて加わったことから、ブリュー・ストッキングと仇名されたことが始まりで、我が国の新しい女の一群は、此の名をとつて、青鞜社と称する団体を組織し、機関誌「青鞜」を発行して居る」とある。

 『青鞜』の創刊は明治四十四年で、大正五年までに五十二冊が出されているが、『や、此は便利だ』の「新しい女」と「ブリュー・ストッキング」という「新聞語解説」は明らかにこの「青鞜」という新しい女性メディアの動向に基づいているのだろう。そういえば、近年になって、大正二年青鞜社刊行『青鞜小説集第一』が青鞜社編『青鞜小説集』(講談社文芸文庫)として文庫化されたことを付記しておこう。

 (『青鞜小説集第一』) 青鞜小説集 (講談社文芸文庫)


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古本夜話1521 伊藤整『雪明りの路』、百田宗治、椎の木社

 これも『近代出版史探索Ⅵ』1008の百田宗治と椎の木社にリンクしているので、ここで書いておこう。伊藤整の最初の著書は詩集『雪明りの路』である。同書を収録の『伊藤整全集』(第一巻、新潮社)を確認してみると、日本近代文学館版複刻に先駆け、昭和二十七年に木馬社、同四十五年に伊藤整一回忌に貞子夫人によっても再刊されている。しかも前者の「跋文」において、これらの詩集が「ある意味では自分の全作品の中で一番大切なもの」と述べてもいるからだ。

(第一巻)「詩集 雪明りの路」 伊藤整:著 椎の木社版 特選名著複刻全集 近代文学館 /昭和50年発行 ほるぷ出版 (日本近代文学館)(木馬社)

 『雪明りの路』が百田宗治の椎の木社から刊行されたことは既述したが、この詩集出版は伊藤にとって詩人としてデビューしただけでなく、その後の文学生活へと導かれていく回路を決定づけたのである。彼は『若い詩人の肖像』(新潮文庫)において、『雪明りの路』の自費出版、その体裁、詩人たちへの献本と発送、学校の同僚たちへの選択的贈呈、高村光太郎からの賞讃の葉書、『椎の木』誌上での丸山薫や三好達治たちの好意的書評などが詳細にたどられている。

(椎の木社)若い詩人の肖像 (新潮文庫 草 88-5)

 伊藤はまだ二十三歳で、北海道の中学の英語教師だった。そうした社会的ポジションの中での処女出版とその臨場感は抑えて書いているけれど、『若い詩人の肖像』が戦後の昭和三十七年前後の作品、つまり『雪明りの路』刊行から三十年後に書かれたと思えないほどである。その最初のシーンを引いてみる。

 大正十五年の十二月末になって、私の詩集が出来、宿直室に三百部積み上げられた。組版に取りかかってから五ヵ月目であった。白い切りはなしの表紙に五号四分の一という太目の枠を入れて、真中に「雪明りの路」と一号活字で印刷してあった。糸かがりが下手で、製本は粗末であった。それは四六判で二百四十頁、約百二十篇の詩が印刷されてあった。奥付けの著者名の横に、私は自分の村の住所を入れた。発行所は東京都府下中野上町二七五六番地の椎の木社となっていた。百田宗治は「椎の木」に一頁の広告を出してくれて、多少は売れそうだから、五十冊ほど送ってよこすようにと、言って来た。五十冊売れそうだという百田宗治の言葉を、私は頭の上から光が射すような気持で受け取った。(後略)

 この伊藤の説明によって、手元にある『雪明りの路』の造本や奥付表記などが余すことなく示され、さらなる補遺を必要としないほどだ。これは現在のような大量生産、大量消費の出版状況下においては当事者を除いて実感されないであろうけれど、三百部刊行の詩集が「五十部売れそうだ」との東京からのコレスポンダンスは伊藤をして、「頭の上から光が射すような気持」にさせたことは、それが特筆すべき朗報だったからだ。この時代の詩誌『椎の木』と椎の木社は北海道の無名の詩人といっていい伊藤の処女詩集を、「五十部売れそうだ」という販売予測を立てられるほどに、確実な読者層をつかんでいたことになる。それはかつてと異なる昭和の詩の時代のニュアンスを伝えているのだろう。

 伊藤は『雪明りの路』を「恋愛詩」がメインだとしているが、ここでは「電信柱――十七の年の唄」にふれてみよう。それは次のように始まっている。

 なだらかな緑の山を越えて
 遠く青空のかなたへ続いてゆく電信柱。
 あゝ あの山の向ふに
 どんな懐しい思出が住んでゐる。

 そして「美しい私の夢」や「むかしの夢」が「電信柱」の向こうにあると続いていく。しかしそのような「夢」も、現実の風景によって破られる。

 いつかの春 野山の雪が消えたときに
 山かげから
 変な言葉をつかふ
 電信工夫の群がやつて来た。

 みんなは村の木賃宿へとよつて
 次の日はまた電信柱に添ふて
 段々山の向へ越えて行つた。

 あの変な言葉づかひの
 電信工夫たちの事を私は忘れないでゐる。

「変な言葉をつかふ/電信工夫の群」とは何のメタファーなのであろうか。「十七の年」の頃に自覚した現実、もしくは開発のシーンと重なるような、よそから突然やってきた労働者たちの実際の姿なのであろうか。

 このような道に電信柱が映し出されるシーンを含んだアメリカ映画をいくつも見ている。それは向こうにある夢の象徴のようでもあり、紛れもなく、道路と電信柱しかない現実のイメージを浮かび上がらせているようでもあった。ではどの映画かと問われるとただちに挙げられないけれど、意識せずして、そのような風景をアメリカ映画の中に見てきたと思う。また私的に小学生時代を回想すれば、「変な言葉をつかふ/電信工夫の群」は高度成長期の道路脇に建てられた飯場の風景が重なってくる。そこには蛇が干されたりしていた。

 伊藤の十七歳は大正十年頃だと推定されるが、彼が「序」に書きつけている『雪明りの路』の背景にある「北海道の自然」に何らかの変容が生じ、それがこのような詩へと投影されたのであろうか。


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古本夜話1520 河出書房『白秋詩歌集』

 続けて『萩原朔太郎全集』『佐藤惣之助全集』にふれたが、同じように戦時下において、河出書房から『白秋詩歌集』も出版されている。その白秋も完結を待たず、昭和十七年に亡くなっている。昭和十六年八月初版、十八年三版三千部発行と奥付にある『白秋詩歌集』第四巻の『歌集Ⅱ』を古本屋の均一台で拾った。これは奥付裏に全八巻の内容が示されているように、『歌集』の他にも、二冊ごとに『詩集』『童謡集』『歌謡集』を編んだもので、初見であった。

     (『童謡集』)

 入手した第四巻は函の有無は不明だが、裸本で四六判四二三ページ、『白南風』(アルス、昭和八年)、『夢殿』(八雲書林、同十四年)、『渓流唱』(アルス近刊)とされていたが、実際に『渓流唱』は昭和十九年に靖文社刊行で、それらに『黒檜』(八雲書林、同十五年)も収録し、短歌千八百余首、長歌三十篇に及んでいる。第三巻の『歌集Ⅰ』と合わせれば、白秋は豊饒なというしかない多くの歌を詠んでいたことになり、それに詩、童謡、歌謡までも含め、オールラウンド的な詩人だったことをあらためて認識させられる。戦前の『白秋全集』といえば、昭和三年から八年にかけて出されたアルス版全十八巻がよく知られていよう。だが河出書房の『白秋詩歌集』は昭和十六年時点での白秋の詩歌全集と見なすこともできる。

    (アルス)

 薮田義雄は白秋の門下で、一時期は秘書を務めていたが、『評伝北原白秋』(増補改訂版、玉川大学出版部、昭和五十三年)において、昭和十五年のこととして、次のように記している


 十月のある日、河出書房編集部の澄川稔が白秋邸に私を訪ねてきた。澄川君は学生時代に新美南吉とともに中野上高田の私宅にあそびにきたことがあり、私とは旧知の間柄だった。その澄川君からもちかけられた相談というのは、いまどき取って置きの上質紙が何千部か我が社にある。それを小説集などにむざんに使ってしまいたくない。詩集か歌集か、あるいは葉っぱのように薄い詩文集をつくってみては――などと頻にいうのは、彼が大の白秋信者だったからである。
 あとでゆっくり相談してみるからといって、その日はまず引きとってもらったが、その話が発展して『白秋詩集』となったのである。だが、企画の途中で担当は小川正夫にかわった。そして私と小川君とは既刊の著作目録を対象に、だいたいの体系をたてた。そのうえで先生をまじえて意見の交換をした。(中略)
 夜に入り編集の体系が整った。巻和は八巻そのうち詩集、歌集、童謡集、歌謡集各二巻と決定、一冊あたりの頁数は四百頁から四百五十頁見当ということになった。次いで第一回・第二回配本を詩集ⅠⅡでゆくという案もきまった(後略)。

 かくして『白秋詩歌集』第一巻は昭和十六年一月に出版の運びとなり、初版はただちに売り切れ、増刷となったという

 これらの薮田の証言を重ね合わせると、大東亜戦争下の文芸出版の実相、もしくはその一端が浮かび上がってくる。やはり昭和十六年に出された「社団法人日本出版文化協会概要」という二二ページの「協会パンフレット」があり、そこで日本出版文化協会の「出版新体制」のための主な事業として、「出版資材の配給調整」「出版物の発行調整」「出版物の配給調整」の三つが挙げられている。その最初に「出版資材の配給調整」があるように、これは紙の配給に他ならず、何よりも出版社は紙を確保することが最大の関心事だったと考えられる。

 それゆえに河出書房が「いまどき取って置きの上質紙が何千部か我が社にある」ことは願ってもない僥倖で、「大の白秋信者」の編集者澄川にとってみれば、つまらない小説集などに使うべきではなく、薄い詩集か歌集にそれを用いるべきなのだ。しかしそれに小川という編集者も加わったことにより、さらに企画はふくらんだ。その結果、編集の最大眼目は白秋の「四十年に渉る全著作の内、詩・短歌長歌・小唄民謡・童謡・国民歌謡の韻文芸術を集大成して、これを国民詩人としての建前から何巻かに凝集しようという」ことになったのである。

 そしてそれが功を奏し、第一巻は「瑰麗珠玉の詩篇を包蔵して眼もまばゆい出来映」で、初版部数はわからないが、ただちに品切、重版となった。それは第四巻も同様だったようで、先述のごとく、昭和十八年には三版三千部の重版に至っている。おそらくそれらは先に挙げた「出版物の発行調整」=出版部数の決定、「出版物の配給調整」=日配の取次配本も三拍子揃ったところでの『白秋詩歌集』の流通販売のプロセスだったように思われる。


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古本夜話1519 千家元麿『冬晴れ』と新しき村出版部「人類の本」

 前回の佐藤惣之助や『近代出版史探索Ⅵ』1031の百田宗治たちとともに、中央公論社版『日本の詩歌』13 に収録されているのは千家元麿で、彼はやはり同巻の福士幸次郎や佐藤と大正元年に同人誌『テラコッタ』を創刊している。

 その千家の詩集ではないけれど、短篇脚本を入手していて、それは『冬晴れ』である。同書は「人類の本」シリーズとして、大正十三年に発行兼印刷者を長島豊太郎とする新しき村出版部から刊行されている。印刷所は曠野社でその住所は北豊島郡長崎村、新しき村出版部と同じである。

 この「人類の本」は奥付裏に既刊、近刊が十三冊リストアップされているが、紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』を確認すると、幸いにして、次のような書き出しで一章が立てられていた。

大正期の文芸叢書

 「新しき村叢書」「曠野叢書」「人類の本」「村の本」、これらが武者小路実篤と、日向の「新しき村」運動とのつながりのなかで、力強く生み出された直営方式のユニークなシリーズであった。商業的出版社に依存せず、すべて自力で、とくに「曠野叢書」「人類の本」は、出版所も自分たちが運営、出したい本を出し、「新しき村」のためという営みであり、それを周辺の人たちが支持したのである。

 これに続いて、「人類の本」のラインナップも示されているので挙げておこう。

1  志賀直哉 『真鶴』
2  長与善蠟 『或る社会主義者』
3  武者小路実篤 『女の人の為に』
4  千家元麿 『冬晴』
5  木村荘八 『猫』
6  ストリンドベリイ、外山楢夫、外村完二訳 『三部曲』
7   〃
8  木村荘太訳編 『創造的芸術家(一)シエイクスピア』
9  武者小路実篤 『建設の時代』
10  アナトオル・フランス、竹友藻風 『丸太』
1  木村荘太訳編 『創造的芸術家(二)バルザック』
12  長与善郎 『波』
13  千家元麿 『日常の戦』
14  武者小路実篤 『耶蘇』
15  倉田百三 『靜思』
16  武者小路実篤 『三方面』

(『耶蘇』)

 紅野はさらに未刊行に終わった白樺派の園池公致や長島豊太郎の短篇選集にもふれ、「残念きわまる」と述べているが、このふたりの作品集はその後も刊行されていないようなので、私もそう思う。

 またそこには5の『猫』の書影も掲載され、4の『冬晴れ』とまったく同じ四六判、角背の装幀、造本だとわかる。しかも刊行年はすべて大正十三年とあるので、これらの十六冊は同年の二月から九月にかけて半年余の間に続けて出版されたことになる。しかし流通や販売に関する具体的言及はないけれど、主として読者への直販をベースにしていたと推測される。

 この「人類の本」シリーズは短編、脚本、評論、感想、翻訳などの組み合わせからなり、それらのことから判断すると、紅野は著者の意志よりも、「新しき村」のための資金づくりが先行していたと指摘している。それを考慮すれば、取次や書店ではなく、読者への直接販売が目されたことも実感できるし、何よりも関東大震災で、新しき村出版部が当時の書店市場での販売が困難だと見なしていたことも要因のように思われる。

 それらはともかく、ここでは千家の『冬晴れ』にふれておくべきだろう。これは「短篇脚本集」とあるように、表題作を始めとする八つの短篇、脚本「結婚の敵」、対話「狂へる運命」によって構成されている。千家は明治二十一年東京に生まれ、父は西園寺内閣司法大臣などを務めた政治家、母は両国の料亭の長女で、彼に正妻がいることを知らずに元麿を生み、妾の位置に甘んじるしかなかった。そうした複雑な家庭環境から、父に反抗し、学業定まらず、家出したり、上野、浅草を遊び歩いたりしていた。

 その一方で、『万朝報』や『新潮』などに投稿を始め、詩は河井酔茗、短歌は窪田空穂、俳句は佐藤紅緑に師事し、先述したように、同人誌『テラコッタ』を創刊した。そしてそこで武者小路実篤の『世間知らず』(洛陽堂)を激賞したことにより、武者小路実篤との交流が始まり、必然的に白樺派へと接近し、また父の反対する結婚にも至っていた。

(『世間知らず』)

 こうした詩人として出発する以前に、千家は白樺派の理想主義下にあって、『冬晴れ』にまとめられる短篇や脚本を書き、それらを白樺派の自前の新しき村出版部から刊行していたことになる。これらの中で最も長いものは、六四ページと三分の一ほどを占める「結婚の敵」で、この戯曲には千家の結婚の体験が背景となっているのだろうし、「冬晴れ」がそのポジとすれば、こちらはネガとしても読める。なお武者小路の『馬鹿一』は千家をモデルとしているようだ。

馬鹿一 (新潮文庫 草 57-10)

 『冬晴れ』にしか言及できなかったが、紅野は「人類の本」のそれぞれにかなり詳しい解題を添えているので、このシリーズ全体に関しては『大正期の文芸叢書』を参照されたい。また同書には「人類の本」と同様に、白樺派の出版の試みとしての「新しき村叢書」「曠野叢書」「村の本」の解題と明細も収録されていることを付記しておく。


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古本夜話1518 桜井書店『佐藤惣之助全集』

 前回の萩原朔太郎と同じく、昭和十七年五月に続いて亡くなり、翌年にやはり全集が刊行された詩人がいる。それは佐藤惣之助で、彼は朔太郎と同様に『近代出版史探索Ⅵ』1052の詩話会に属し、朔太郎とともに『日本詩人』の編集に関わっただけでなく、朔太郎の妹と結婚していたのである。それもあって、五月十三日の朔太郎の葬儀は佐藤を委員長として営まれたのだが、佐藤もまた五月十五日に脳溢血のために急逝している。まさに朔太郎を追うような死であった。

 それに伴い、『萩原朔太郎全集』に寄り添うかたちで、同じ室生犀星編輯及校閲によって、『近代出版史探索Ⅵ』1042などの桜井書店から『佐藤惣之助全集』全三巻が刊行されている。だがそれは完結しなかったようだ。山口邦子『戦中戦後の出版と桜井書店』(慧文社)の「桜井書店出版目録」に『佐藤惣之助全集』上下として「詩集篇」が挙げられているが、実物は未確認だとされている。

  戦中戦後の出版と桜井書店: 作家からの手紙・企業整備・GHQ検閲 

 それらの出版経緯と事情は詳らかでないけれど、『萩原朔太郎全集』と同様の菊判、函入で、これも大東亜戦争下において、出版が試みられただけでも僥倖だったと見なすしかない。私の手元にあるのはその「随筆篇」だけだが、おそらくこの一冊が出されていなければ、佐藤の詩はともかく、まとまった随筆を読むことはなかったと思われるからだ。実際に戦後になっても、『佐藤惣之助全集』は刊行されていないのである。

 私にしても、古本屋でこの一冊を入手することがなかったならば、『近代出版史探索Ⅶ』1382で佐藤が高峰三枝子が歌う「湖畔の宿」の作詞者であることにはふれているが、「枯野の王者」「彼女は帰れり」「水中の客」といった佐藤の散文を知らずにいただろう。これらも朔太郎とのアナロジーで考えてみると、佐藤による朔太郎の「郷土望景詩」(『純情小曲集』所収)や「田舎の時計」(『宿命』所収)などの変奏曲のようにも読める。またそれらは佐藤の詩と通底するところの宗教的な寓話や物語を形成しているとも思われる。こうして佐藤の散文物語とでもいうべき作品を読む機会に恵まれたわけなので、それらの三編を紹介してみる。

 最初の「枯野の王者」は「よく人は君はどういふ土地で生まれたのですか」という問いかけから始まっている。理想的なところであれば、誇れるけれど、「全く私の生れた町はあまりに雑多でちらかつてゐて、誰の眼にも見馴れてゐるやうな所」で、「土地の人は土着力が少くすぐどこかへ移住してしまふ」。それゆえに「この土地に限つた習俗やアクセントをもつた人の言葉もきかれなくなり、かつては私達が初めて世帯といふものを学むだ所も、もういたずらに他国の移住者に住み荒されてしまつた」のである。

 そうした田舎町にこの頃昔よく見たような男が歩いている。得体が知れないけれど、「子供の時のみに知つてゐたやうな野原や裏路をまるで失はれた昔の町を掘出して見るやうに歩いてゐる」。彼は年齢不詳で、どこからともなくやってきて、ただ一人ぼっちで彷徨い、それは仏典にある「歩行鬼」と呼んでもいいかもしれない。あるいはまたギリシャの樽を失ったディオゲネスのようだ。田舎木綿の身なりにしても、街道の色と風に染められ、古い木造の家の色や路や川などと調和し、それは四季を通じてのものとなる。ただ「大昔には彼のやうな生活が流行して、地には蜜がながれ果実は熟して自由に食べられたかも知れないが今の世はさうはゆかない」。だが彼は「天然底なしの婆羅門教徒」で「枯野の夕暮」に佇み、それは「ふしぎな一つの絵」「エヂプトを脱するエホバの民の一員」であるように見えると同時に、土地の精霊のメタファーともいえよう。だからこの「枯野の王者」は「私も枯野の散歩に出て、今日もかの男に遠くから無心の挨拶をして来ようと思ひながら」と結ばれている。

 それに続く「彼女は帰れり」は都会人の場合、三人に二人は古い故郷を持ち、郷愁の感情だけは純潔に保っているが、同時に寂莫と悲痛の郷愁も持っているとの認識がまず示される。それに「少し都会化した女や男は故郷を恥ぢる」ことも。しかし長年にわたって注意していると、家出した人や他郷へいった者が思い出したように帰ってきている。それは「恥しながら私もその一人である。(中略)私も三度出て三度帰つた。両親と家があれば人はきつとかへる」のだ。そうして船乗りや放蕩息子の帰還、及び遊郭に売られてしまった「異人みたい」な色の白い美しい娘の六年ぶりの帰郷の後日譚が語られていく。

 「水中の客」は故郷の川を流れて行く若い女の屍、すなわち故郷のオフィーリアの話と称していいだろう。娘は戸板に載せられ、どこかへと運ばれていった。「水は静まり太陽は照り輝いた。静かな夢のやうな空気が戻つて来た。それを見てゐると娘の一生が思ひ出されるやうであつた」。そして彼女の死に至るこれまでの人生が想像され、「我々は死んだ美しい子供や冷淡な弱々しい娘を思ふ時、彼女の生存してゐたことを嘘のやうに思ふが、実際は彼女が死と調和を得てゐる事を感じる事は出来るのが」と結ばれている。

 ちなみに佐藤の故郷を記しておけば、神奈川県橘樹郡川崎町砂子で、家業は雑貨商、正価は明治維新まで川崎宿本陣であった。また彼は昭和六年頃から歌謡曲も手がけるようになり、「湖畔の宿」だけでなく、「赤城の子守唄」「人生劇場」「上海だより」「燃ゆる大空」などの作詞をしていることを付記しておこう。


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