出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1518 桜井書店『佐藤惣之助全集』

 前回の萩原朔太郎と同じく、昭和十七年五月に続いて亡くなり、翌年にやはり全集が刊行された詩人がいる。それは佐藤惣之助で、彼は朔太郎と同様に『近代出版史探索Ⅵ』1052の詩話会に属し、朔太郎とともに『日本詩人』の編集に関わっただけでなく、朔太郎の妹と結婚していたのである。それもあって、五月十三日の朔太郎の葬儀は佐藤を委員長として営まれたのだが、佐藤もまた五月十五日に脳溢血のために急逝している。まさに朔太郎を追うような死であった。

 それに伴い、『萩原朔太郎全集』に寄り添うかたちで、同じ室生犀星編輯及校閲によって、『近代出版史探索Ⅵ』1042などの桜井書店から『佐藤惣之助全集』全三巻が刊行されている。だがそれは完結しなかったようだ。山口邦子『戦中戦後の出版と桜井書店』(慧文社)の「桜井書店出版目録」に『佐藤惣之助全集』上下として「詩集篇」が挙げられているが、実物は未確認だとされている。

  戦中戦後の出版と桜井書店: 作家からの手紙・企業整備・GHQ検閲 

 それらの出版経緯と事情は詳らかでないけれど、『萩原朔太郎全集』と同様の菊判、函入で、これも大東亜戦争下において、出版が試みられただけでも僥倖だったと見なすしかない。私の手元にあるのはその「随筆篇」だけだが、おそらくこの一冊が出されていなければ、佐藤の詩はともかく、まとまった随筆を読むことはなかったと思われるからだ。実際に戦後になっても、『佐藤惣之助全集』は刊行されていないのである。

 私にしても、古本屋でこの一冊を入手することがなかったならば、『近代出版史探索Ⅶ』1382で佐藤が高峰三枝子が歌う「湖畔の宿」の作詞者であることにはふれているが、「枯野の王者」「彼女は帰れり」「水中の客」といった佐藤の散文を知らずにいただろう。これらも朔太郎とのアナロジーで考えてみると、佐藤による朔太郎の「郷土望景詩」(『純情小曲集』所収)や「田舎の時計」(『宿命』所収)などの変奏曲のようにも読める。またそれらは佐藤の詩と通底するところの宗教的な寓話や物語を形成しているとも思われる。こうして佐藤の散文物語とでもいうべき作品を読む機会に恵まれたわけなので、それらの三編を紹介してみる。

 最初の「枯野の王者」は「よく人は君はどういふ土地で生まれたのですか」という問いかけから始まっている。理想的なところであれば、誇れるけれど、「全く私の生れた町はあまりに雑多でちらかつてゐて、誰の眼にも見馴れてゐるやうな所」で、「土地の人は土着力が少くすぐどこかへ移住してしまふ」。それゆえに「この土地に限つた習俗やアクセントをもつた人の言葉もきかれなくなり、かつては私達が初めて世帯といふものを学むだ所も、もういたずらに他国の移住者に住み荒されてしまつた」のである。

 そうした田舎町にこの頃昔よく見たような男が歩いている。得体が知れないけれど、「子供の時のみに知つてゐたやうな野原や裏路をまるで失はれた昔の町を掘出して見るやうに歩いてゐる」。彼は年齢不詳で、どこからともなくやってきて、ただ一人ぼっちで彷徨い、それは仏典にある「歩行鬼」と呼んでもいいかもしれない。あるいはまたギリシャの樽を失ったディオゲネスのようだ。田舎木綿の身なりにしても、街道の色と風に染められ、古い木造の家の色や路や川などと調和し、それは四季を通じてのものとなる。ただ「大昔には彼のやうな生活が流行して、地には蜜がながれ果実は熟して自由に食べられたかも知れないが今の世はさうはゆかない」。だが彼は「天然底なしの婆羅門教徒」で「枯野の夕暮」に佇み、それは「ふしぎな一つの絵」「エヂプトを脱するエホバの民の一員」であるように見えると同時に、土地の精霊のメタファーともいえよう。だからこの「枯野の王者」は「私も枯野の散歩に出て、今日もかの男に遠くから無心の挨拶をして来ようと思ひながら」と結ばれている。

 それに続く「彼女は帰れり」は都会人の場合、三人に二人は古い故郷を持ち、郷愁の感情だけは純潔に保っているが、同時に寂莫と悲痛の郷愁も持っているとの認識がまず示される。それに「少し都会化した女や男は故郷を恥ぢる」ことも。しかし長年にわたって注意していると、家出した人や他郷へいった者が思い出したように帰ってきている。それは「恥しながら私もその一人である。(中略)私も三度出て三度帰つた。両親と家があれば人はきつとかへる」のだ。そうして船乗りや放蕩息子の帰還、及び遊郭に売られてしまった「異人みたい」な色の白い美しい娘の六年ぶりの帰郷の後日譚が語られていく。

 「水中の客」は故郷の川を流れて行く若い女の屍、すなわち故郷のオフィーリアの話と称していいだろう。娘は戸板に載せられ、どこかへと運ばれていった。「水は静まり太陽は照り輝いた。静かな夢のやうな空気が戻つて来た。それを見てゐると娘の一生が思ひ出されるやうであつた」。そして彼女の死に至るこれまでの人生が想像され、「我々は死んだ美しい子供や冷淡な弱々しい娘を思ふ時、彼女の生存してゐたことを嘘のやうに思ふが、実際は彼女が死と調和を得てゐる事を感じる事は出来るのが」と結ばれている。

 ちなみに佐藤の故郷を記しておけば、神奈川県橘樹郡川崎町砂子で、家業は雑貨商、正価は明治維新まで川崎宿本陣であった。また彼は昭和六年頃から歌謡曲も手がけるようになり、「湖畔の宿」だけでなく、「赤城の子守唄」「人生劇場」「上海だより」「燃ゆる大空」などの作詞をしていることを付記しておこう。


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古本夜話1517 小学館版『萩原朔太郎全集』と版画社『定本青猫』

 萩原朔太郎は昭和十七年に亡くなり、その翌年から十九年にかけて、小学館から『萩原朔太郎全集』十二巻が刊行されている。

 (第三巻『詩の原理』)
 この出版に関して、『小学館五十年史年表』(小学館社史調査委員会編輯・発行、昭和五十年)はその第三巻『詩の原理』の書影を挙げ、その内容明細もトレースしているけれど、全十巻と誤記し、十一冊までがたどられているだけだ。そうした記述や言及は大東亜戦争下の出版の事実の確認の難しさを伝えているし、それもあってこの時代における小学館版『萩原朔太郎全集』の企画や編集の実態は判明していない。『小学館の80年』(平成十六年)では言及すらもない。

 それでも「同年表」からわかるのは、敗戦後の昭和二十年十月から朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』『恋愛名歌集』を始めとして、『月に吠える』などの詩集も次々に刊行され、戦時下の『萩原朔太郎全集』出版が小学館の戦後の始まりとも密接にリンクしていたのである。それはまた企画編集者も続けて在籍していたことを示していよう。 

 (『郷愁の詩人与謝蕪村』)  (『月に吠える』)

 この『萩原朔太郎全集』第二巻の『詩集下』だけは手元にある。菊判函入、恩地孝四郎の装幀で、さすがに用紙は上製とはいえないけれど、昭和十九年の刊行だとは思えない造本となっている。さらに、売価は税込三円九十銭、発行部数は八〇〇〇部と奥付に明記され、これもまた詩人の個人全集の刷り部数とは信じられない数字として映る。

 しかし国策取次の日配は昭和十八年から書籍の買切制を実施していたことからすれば、これだけの部数を買切で配本できるシステムを構築していたと推測される。もちろん本探索で何度も既述してきたように、それは満州、朝鮮、台湾などの植民地の外地書店を含めてであった。そうした事実は学年誌をメインとする小学館にとっても、このような詩人の個人全集が本来の出版ビジネス外の重荷だったどころか、かなりの利益をもたらす出版に他ならなかったと見なすこともできよう。

 著作権者は戦後に『父・萩原朔太郎』(筑摩書房)を上梓する長女の萩原葉子、編集代表は室生犀星である。発行者は相賀ナヲで、小学館創業者の相賀祥宏が昭和十三年死亡以来、その夫人が発行名義人を務めていたことになる。この第八回配本は『青猫』『蝶を夢む』『定本青猫』『郷土望景詩』『氷島』などが収録され、月報にあたる 「附録」には堀辰雄がほぼ四ページのすべてにわたって、「『青猫』のことなど」を寄せていて、戦前の詩の時代を想起させてくれる。

父・萩原朔太郎 (1959年)  

 そこで堀は山の療養所から出てきたばかりの昭和十年の春先に、銀座の裏通りで、朔太郎にばったり出会った。

 「ちやうど好かつた。君はまだ山のほうかと思つてゐたんだがね・・・」
 さう云はれながら、萩原さんは、その裏通りに面して出窓に版画などを並らべた小さな店へと私を連れてはひられた。その店はこのごろ詩学の出版などもやり、ちやうど萩原さんの「青猫」の édition definitive ができたところで、それへ署名に来られたのだつた。
 「君にも上げたいと思つてゐたのだ。」
 萩原さんはさういふと、最初手にとられた一冊に無ざうさに署名をして私に下すつた。それから店の主人などを相手に他の本へ署名をせられたりしてゐたが、その傍らで、私はいただいた本を披らいて、なにげなさうにそのなかの挿絵を見たりしてゐた。

 この店こそは『定本青猫』を刊行した版画荘で、すでに『近代出版史探索Ⅲ』459などでこの出版社には言及してきたが、こうして具体的に描かれているのは初めて目にするものだ。

 それらはともかく、この堀の文章は「『青猫』のことなど」のさわりのところで、さらに同巻所収の「思想は一つの意匠であるのか」や「海鳥」なども引用され、まだまだ続いていくのだが、最後の部分の『定本青猫』の「挿絵」に留意してほしい。言外に堀は『青猫』初版の「もつとちぐはぐな挿絵」と比較し、「こんどの本のほうが前のよりもずつと一巻の詩集として『青猫』のさうあるべき姿に近づいてゐる」との判断に至る。それに『定本青猫』に新たに加えられた詩は「郵便局の窓口で」と「時計」の二編だけで、それほど重要だとは思えない。とすれば、「挿絵」の相違と『定本青猫』に新たに加えられた「自序」と「定本『青猫』所載木版画に付せられた註」ゆえと考えていい。しかし小学館版の『詩集下』には「自序」と「同註」があるだけで、「挿絵」はなく、それは『青猫』も同様である。

(『青猫』)  (版画荘版『定本青猫』)

 それらを比較するためには、版画荘版『定本青猫』を入手すべきだが、それは難しいので、筑摩書房版『萩原朔太郎全集』第一二巻によらなければならない。第一巻には『青猫』、第二巻には『定本青猫』の挿絵、また後者にはその函に「6 illustrations」の一枚がくっきりと刷りこまれている書影の口絵写真もある。朔太郎は『定本青猫』の「自序」の最後に「挿絵について」を付記し、それらの停車場、ホテル、海港、市街、時計台の図が明治十七年の『世界名所図絵』から採録だと述べ、「無意識で描いた職工版画の中」にある「不思議に一種の新鮮な詩的情趣」を通じての「古風で、色の褪せたロマンチックの風景」を見ている。

 (第一巻)

 そして次のように続けるのだ。おそらく私がそうだったように、堀もこの「挿絵」に『定本青猫』の特有のアウラを感じたにちがいない。もっとも私の場合は『現代詩人全集』の萩原朔太郎の巻においてだったのだが。朔太郎の「挿絵について」こそは『定本青猫』そのもののみならず、彼の詩の世界のすべてを語っているようにも思われるのだ。少し長いが、それを味わってほしい。

 見給え。すべての版画を通じて、空は青く透明に晴れわたり、閑雅な白い雲が浮かんでゐる。それはパノラマ館の屋根に見る青空であり、オルゴールの音色のやうに、静かに寂しく、無限の郷愁を誘つてゐる。さうして舗道のある街街には、静かに音もなく、夢のやうな建物が眠つてゐて、秋の巷の落葉のやうに、閑雅な雑集が徘徊してゐる。人も、馬車も、旗も、汽船も、すべてこの風景の中では「時」を持たない。それは指針の止つた大時計のやうに、無限に悠悠と静止してゐる。そしてすべての風景は、カメラの磨硝子に写つた景色のやうに、時空の第四次元で幻燈しながら、自奏機(おるごをる)の鳴らす侘しい歌を唱つてゐる。その侘しい歌こそは、すべての風景が情操してゐる一つの郷愁、即ちあの「都会の空に漂ふ郷愁」なのである。


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古本夜話1516 萩原朔太郎個人雑誌『生理』と椎の木社

 続けて室生犀星にふれてきたが、萩原朔太郎のことに戻る。朔太郎は昭和八年に個人雑誌『生理』を創刊し、詩、アフォリズム、エッセイ、評論を寄せ、『郷愁の詩人の与謝蕪村』の連載は蕪村の再評価を促すものだった。これは『近代出版史探索Ⅱ』370でも言及している。ただ『生理』のほうは朔太郎の趣味性が強い雑誌だったこともあって、全五冊を出し、十年に休刊となった。『生理』は『日本近代文学大事典』に解題もある。

 この『生理』の刊行所は百田宗治の椎の木社で、昭和三十九年に本探索1496の冬至書房から「近代文芸復刻叢刊」のひとつとして刊行されている。創刊号の菊判五二ページの表紙には朔太郎の手になる朱色の『生理』の文字と「人体生理之図」が配置され、「萩原朔太郎私家版」とある。寄稿者は朔太郎の他に室生犀星、竹村俊郎、萩原恭次郎、三好達治、佐藤惣之助、辻潤で、それぞれ詩や句や散文などが掲載となっている。

 朔太郎は「編輯後記」において、個性の趣味を発揮した日夏耿之介の『サパト』や佐藤春夫の『ことだま』が念頭にあったが、「面白く、今尚名雑誌」「逆説縦横、真に痛快極まる雑誌」だと記憶に残るのは、『近代出版史探索Ⅱ』219の永井荷風の『文明』だと述べている。しかし自分は彼らと比べて、「無才没趣味な一無能者にすぎない故、どうせろくな雑誌が出来ない」と記しているけれど、満を持しての個人雑誌の創刊だったと思われる。

 それらの事情と創刊に至る経緯などは別冊の伊藤信吉「生理解題」に譲り、ここではこれ以上言及せず、その刊行所の椎の木社にふれてみたい。なぜならば、この『生理』全五冊に椎の木社の出版物の広告が掲載され、その明細を初めて目にするからである。この機会を得て、『生理』全五冊に見られる椎の木社の書籍をリストアップしてみる。

1  室生犀星詩集 『鐵集』
2   〃     『別摺 十九春詩集』
3  ロオトレアモン、青柳瑞穂訳 『マルドロオルの歌』
4  ヴァレリイ、秦一郎訳 『純粋詩論』   
5   〃   、辻野久憲訳 『詩の本質』
6  伊藤整 『イカルス失墜』
7  三好達治詩集 『南窗集』    
8  ジョイス、左川ちか訳 『室楽』
9  安西冬衛 『渇ける神』
10  ヴァレリイ、菱山修三訳 『海辺の墓』
11  椎の木同人 『詩抄Ⅰ』『詩抄Ⅱ』
12  井伏鱒二 『随筆』
13  瀧口武士詩集 『園』
14  小村定吉艶詩選 『春宮美学』
15  スタイン、春山行夫訳 『スタイン抄』
16  城左門、矢野目源一訳 『フランソワ・ヴィヨン詩抄』
17   『西脇順三郎詩集』
18   『日夏耿之介詩集』
19   『萩原朔太郎詩抄』
20  萩原朔太郎 『定本青猫』
21  ジョイス、北村千秋訳 『一片詩集』
22  ポオ、佐藤一英訳 『大鴉』
23  〃 、阿部保訳 『詩の原理』
24  三好達治短歌集 『日まはり』
25  西脇順三郎詩論 『純粋な鶯』
26  小村定吉 『邦訳支那古詩』
27  百田宗治 『詩作法』
28   〃   『多花帖』
29   〃   『ぱいぷの中の家族』


(『室楽』)(『一片詩集』)(『大鴉』)

 これらは『生理』が刊行されていた昭和八年五月から十年二月にかけての椎の木社の刊行在庫と新刊ということになるけれど、すべてが未見で、もちろん入手にも至っていない。青柳瑞穂訳『マルドロオルの歌』が出されていることは聞いていたが、ここで椎の木社からの刊行だと知った次第だ。これらの書籍は『椎の木』第三期の昭和七年から十一年にかけての出版物に属すると考えれば、さらに点数は増えるはずだ。

 それに加えて、『椎の木』の他に『生理』だけでなく、春山行夫の『スタイン抄』が掲載された『尺牘』、西脇順三郎たちの『苑』などのリトルマガジンも発行していたのである。また「本邦唯一の純粋詩雑誌」と謳われている『椎の木』には佐々木仙一訳『マルドロオルの歌』の収録も見え、戦前のこの時代に青柳と佐々木の二人がロートレアモンに注視していたことを教えてくれる。

 このような椎の木社の出版活動の現実は想像するしかないが、それぞれの詩人や翻訳者たちの自費出版も引き受け、その窓口となっていたように思われる。朔太郎は『生理』1の「編輯後記」で、「幸ひ百田君の椎の木社で、一切の面倒を見てくれる上、出版を引き受けるといふ話」と書いているが、それも直販、取次、書店ルート販売のことを意味しているのだろう。

 その『生理』1には巻末に「椎の木社通信」が付され、次のような文言を目にする。「ヴァレリイ『海辺の墓』は読者諸賢からかなり過褒の辞を得て居ります。普通本の紙も大変評判がよろしい。特製の菊金紙局紙摺函入の大型本を一度御覧下さい。新宿と銀座の紀伊国屋の店頭にだけ出しました」。これは紀伊国屋との直接取引かどうかわからないけれど、椎の木社が読者への直販だけでなく、都内の有力書店とは取引していたことを示していよう。

 なお読者から十二冊の書影入り「椎の木社刊行書」六十一冊リストを恵送された。これは古書目録のコピーのようで、全冊で百八十万円の古書価が記載されていた。


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古本夜話1515 改造社『小酒井不木全集』

 前々回の江戸川乱歩「押絵と旅する男」を掲載した『新青年』昭和四年六月増大号は、奇しくも小酒井不木追悼号というべき出だろう。口絵写真には四月三日の葬儀場面、及びそのデスマスクなども収められているし、「小酒井不木氏を偲ぶ」は恩師の永井潜東大教授と大学の同窓生を中心とする「追悼座談会」から始まり、続いて乱歩、森下雨村、国枝史郎などの八本の追悼文が寄せられている。

 小酒井不木は明治二十三年愛知県に生まれ、東京帝大医学部卒業後、大正六年に欧米に留学したが、その間に喀血し、療養のかたわら医学随筆を発表した。それを読んで、『新青年』の森下雨村は不木に寄稿を依頼し、『殺人論』や『犯罪文学研究』などが書かれ、翻訳や実作にも及んだ。またこれも雨村の「小酒井氏の思出」にもあるように、乱歩の後ろ立てで、処女短編集『心理試験』(春陽堂、大正十四年)の八ページの「序」は不木によるものである。その一方で、昭和二年には国枝史郎、乱歩たちと耽綺社を結成し、合作『空中紳士』を『新青年』に連載している。

( 復刻版)

 それらも相乗し、国枝史郎の「名古屋の小酒井不木氏」で語られているように、不木は「名古屋市における寵児であつた」。また同じく「先生の余技」を寄せている岡戸武平は『近代出版史探索Ⅲ』476で既述しておいたが、乱歩と旧知で、しかも名古屋での不木の仕事を手伝っていたことから、死後の『小酒井不木全集』 の編集を委託されたのである。

 それらの経緯と事情をあらためて記すと、この全集は改造社と春陽堂から同時にオファーが出された。その折衝に当たった乱歩は不木や自分の著書の刊行、及び編集者の島源四郎のことを考慮し、春陽堂のほうに縁故があった。しかし遺族の印税収入のことを考えれば、派手で大部数出版が可能な改造社に傾きがちで、乱歩も板ばさみ状態になってしまった。

 そこで登場するのが岡戸で、乱歩は彼を通じて不木の遺族の意向を聞いてもらうと、改造社が希望とのことだった。そこで乱歩は自ら春陽堂に出向き、そうした事情を話し、手を引いてくれるように頼んだのである。かくして改造社からの『小酒井不木全集』の刊行が決まった。その広告が早くも次の『新青年』昭和四年七月号に、「闘病文学の鬼品!! 科学的探偵小説の権威!!」というキャッチコピー付で掲載され、次のような紹介がなされていた。

 澎湃たる大衆文芸時代の潮流に立ちてその方向を指標せし巨人小酒井博士の足跡をみよ!!
 我は人も知る医学界の世界的泰斗たるの身を以て、比類なき才気と絶大の精力と我が成長期なる大衆文芸運動の上に傾けた。該博たる知識と鋭犀なる観察、殊にその科学者的推理方法の特異さを以て、彼が所謂探偵物創作の上に示した天分は洵に古今独歩と云はねばならない。今や彼一朝忽然として逝いて、我が大衆文芸の成長と発展とは、偉大なる生命の源泉と未来への光明を失つたかの感がある。『大衆文芸』は何処へ行く。この問に答ふるは只々本全集八巻の繙読玩味を措いて他にない事を信ずる。

 ここに見られる「大衆文芸時代の潮流」といったタームは、昭和二年にスタートした平凡社の円本『現代大衆文学全集』のベストセラーズ化をさし、折しも前年の昭和三年にはその7として、不木の作品の一巻本集成に他ならない『小酒井不木集』が刊行されたばかりであった。この際だから、こちらも円本に当たる『小酒井不木全集』の明細も示しておこう。

(『小酒井不木集』)

 1『殺人論及毒と毒殺』
 2『犯罪文学研究及近代犯罪実談』
 3『探偵小説短篇集』
 4『探偵小説長篇集』
 5『生命神秘論及闘病街』
 6『学者気質及不木軒随筆』
 7『医談女談』
 8『病間録』

 これが当初の内容明細だったけれど、乱歩が『探偵小説四十年』で証言しているように、刊行が始まると予想以上の売れ行きで、「幾度も増巻を重ね、ついに十七巻まで増して、もう入れる原稿がなくなって完結した」のである。

江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上) (光文社文庫)

 私が古本屋で拾っているのは裸本で、その第六巻だけだが、前述の明細と異なり、『生命神秘論及不木軒随筆』とあり、これらに『探偵雑話』も収録されているのは第十七巻まで増巻を重ねたことにより生じた内容変更だと了解される。またこの巻に不木と生理学、優生学の永井潜の口絵写真が置かれているのは、これも先の「追悼座談会」の出席者の一人が永井で、大学時代に不木が永井の書生を務めて同居し、卒業後はその教室の助手だったことに起因しているとわかる。このような不木とアカデミズム人脈もまた、大正における探偵小説隆盛のバックヤードだったことになろう。

(第六巻)


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古本夜話1514 凌雲閣、『緋牡丹博徒お竜参上』、『めがねと旅する美術』

 浅草の凌雲閣=「十二階」といえば、必ず思い出されるのは加藤泰監督、藤純子、菅原文太共演『緋牡丹博徒お竜参上』である。この映画は昭和四十五年の「緋牡丹博徒」シリーズの第六作に当たり、同監督の第三作『花札勝負』と並んで名作の誉れが高く、私もリアルタイムで観ている。

緋牡丹博徒 お竜参上 [DVD]  緋牡丹博徒 花札勝負(期間限定) ※再発売 藤純子

 この映画は明治末期の浅草を舞台としていることもあって、いつも背景に凌雲閣が見えている。その中でも忘れられないのは、雪の降る今戸橋で藤純子が菅原文太演じる流れ者を見送るシーンだが、その橋の向こうには凌雲閣が映っている。この今戸橋のシーンは最後のところで繰り返され、今度は二人が道行のように、戦いの場としての凌雲閣へ向かっていくのである。

 かつて初めての加藤泰の真っ当な映画本というべき「幻燈社『遊侠一匹』」(『古本屋散策』所収)に言及しているが、そこには凌雲閣も映る二人の今戸橋のシーンのスチール写真も見ることができる。また近年「緋牡丹博徒」シリーズもDVD化されているので、そうした記憶に残るシーンを反復することも可能になってきるけれど、映画館のスクリーンで観ていたあの時代に戻ることはできない。それでもあらためて雪の今戸橋と凌雲閣のシーンが『近代出版史探索Ⅲ』409の小林清親の「海運橋〈第一銀行雪中〉」にヒントを得ているのではないかと思ったりもする。

遊侠一匹 加藤泰の世界 

 そんなことを考えたりしていて、たまたま連想が及んだのは写真集『九龍城探訪』(イースト・プレス、平成十六年)という一冊だ。これはグレッグ・ジラード、イアン・ランボット著、小原美保訳、吉田一郎監修で、「魔窟で暮らす人々」をサブタイトルとして翻訳刊行されている。九龍城=City of Darknessは香港の中心に存在した最大の高層スラムで、三万三千人が住んでいたが、英国からの中国への一九九七年の香港返還を機として取り壊され、その一世紀にわたる歴史に終止符が打たれた。

九龍城探訪 魔窟で暮らす人々 - City of Darkness

 この「魔窟」の取り壊しを前にして、二人の写真がその歴史と現在を三二〇枚の写真に収め、住民へのインタビューも重ね、ドキュメンタリーとして提出したのが『九龍城探訪』ということになろう。この一冊が小説や映画、それにコミックまでも含め、多くの物語を喚起するに至ったことはいうまでもないが、それらに関しては別稿に譲りたい。ここでは凌雲閣がテーマであるからだ。

 その『九龍城探訪』を繰りながら、先の小林清親の画集ならぬ凌雲閣=十二階の写真集や記録集があればと思ったのである。ちょうどその頃、凌雲閣を目に留めたことにもよっている。ひとつはその清親に愛着を覚えていた永井荷風をそのまま雑誌タイトルとした『荷風!』(18号、日本文芸社、平成二十年)が特集「浅草・両国」を組み、表紙に山本高樹によるジオラマで「在りし日の浅草六区」が再現され、大きく凌雲閣が描かれていたことだ。もうひとつは山本薩夫監督の山本宣治の生涯を描いた『武器なき斗い』(「独立プロ名画特選」、新日本映画社)において、関東大震災時の凌雲閣崩壊のフィルムが挿入されていたのである。

荷風 2008年 12月号 [雑誌]  独立プロ名画特選 武器なき斗い [DVD]

 しかしその後も留意していたが、まとまった凌雲閣に関する記録などを目にすることはなかった。ところが最近になって、八木書店の地下で、一冊だけ残っていた『めがねと旅する美術』(青幻舎、平成三十年)に出会った。これはメインタイトルのみならず、サブタイトルにも「見えないものを見るため、世界ののぞき窓」とあり、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」に由来するのは明らかだった。ちなみに同書はめがねと旅する美術展実行委員会編で、青森県立美術館、島根県立石見美術館、静岡県立美術館の三館共同企画の美術展カタログであり、企画者は工藤健志、川西由里、村上敬とあった。

めがねと旅する美術

 その冒頭には塚原重義監督による短編カラーアニメ「押絵ト旅スル男」も掲載され、それは凌雲閣のシーンから始まっている。また続く「遠めがね――世界をとらえる」において、次のように凌雲閣をめぐる引札やすごろくなどが収録されているので、それらを挙げてみよう。

1  歌川重清 「東京浅草観世音並ニ公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図」 (明治19年)
2  歌川国貞(三代) 「凌雲閣機絵双六」 (明治23年)  
3   〃       「浅草公園凌雲閣登覧寿語六」 (明治23年)
4  楊斎延一 「東都真景名所浅草金龍山並ニ凌雲閣」 (明治23年)
5  杉崎帰四之助画・発行 「大日本凌雲閣之図十二階直立二百二十丈」 (明治23年)
6  栗生麟太郎版 「浅草凌雲閣」 (明治24年)
7  上田信 「浅草凌雲閣」 (平成30年)

(歌川国貞)(楊斎延一) (栗生燐太郎)

 とりわけ3はバベルの塔のようでもあり、十二階から遠眼鏡をのぞいている男も描かれ、乱歩もこの「浅草公園凌雲閣登覧寿語六」を見て、「押絵と旅する男」を発想したのかもしれないと思わせるものだ。これらの他にも、凌雲閣は多くの絵、双六、版画が描かれ、制作されたにちがいない。だが大正時代の関東大震災において被災し、解体されたことで、凌雲閣の寿命は三十年と短く、昭和を迎え、忘れ去られていったことになろう。


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